ちょうど20年前の2月13日、ロサンゼルスで会見を行なった野茂
今から20年前の1995年。1月に阪神・淡路大震災、3月には地下鉄サリン事件が発生するなど、日本列島は黒い厚い雲に覆われていた。そんな中、遠く離れたアメリカの地で一人の侍が全米を席巻。列島に明るいニュースを届けてくれた。
初登板の約3か月前の2月13日。野茂英雄(当時26歳)はロサンゼルスで会見を行い、マイナー契約からドジャースでメジャー昇格を目指す考えを発表した。年俸は僅か980万円。近鉄では5年間で4度の最多勝利、同じく4度の最多奪三振王に輝くなど、すでに年俸は推定1億5000万近くに達していたが、文字通りアメリカンドリームをつかむため、いちからの出発を誓った日であった。
1995年春、前年から続くストライキのため約1か月遅れでメジャーは開幕を迎えた。野茂はオープン戦で結果を残し、5月2日のジャイアンツ戦に先発投手としてデビューを飾った。当然、日本でも野茂のトルネード投法がメジャーリーガーに通用するのかどうかに注目が集まった。結果は5回を投げ、1安打、無失点、7奪三振。勝敗はつかなかったが、その後の活躍を予期させるには十分の内容だった。
全米で巻き起こった“トルネード旋風”
それから1か月後の6月2日にメッツからメジャー初勝利を挙げると、順調に勝ち星を重ね7月のオールスターではナ・リーグ先発の大役をも担った。結局1年目を13勝6敗、防御率2.54、236三振で終え、新人王と奪三振王のタイトルを獲得。日本だけでなく、全米でも野茂フィーバーが巻き起こった。
現在30歳以上の人なら野球ファンでなくとも、20年前に野茂の活躍を目に耳にしただろう。野球ファンなら、野茂の初登板試合、初勝利を挙げた試合、オールスターでの投球など、その活躍がつい先日の出来事のように蘇ってくるのではないだろうか。それほどあの年、野茂が残したインパクトは強かった。
ちなみに236三振は日本人投手1年目の数字としていまだに破られていない大記録である(2位はダルビッシュの221三振、3位は松坂大輔の201三振)。その後も2年目に16勝を挙げるなど、メジャー実働12年間で通算123勝をマーク。また1996年と2001年にノーヒットノーランを記録するなど、まさに記憶にも記録にも残る大投手だった。その後も数多くの日本人投手が海を渡ったが、1年目の野茂を超えるインパクトを残した投手は生まれていない。『もしあの時、野茂が渡米していなければ……』。ドジャース入団からちょうど20年を機に今一度、それぞれが思いを巡らせてみるのもいいのではないだろうか。