ニュース 2018.02.23. 17:00

ショウアップナイターのはじまり【深澤弘のショウアップナイターヒストリー】

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長年にわたってショウアップナイターの実況を務めた“レジェンド”深澤弘スポーツアナウンサー [画像=ニッポン放送]

運命の東京オリンピック


 早速ですが初回は、私が初めてプロ野球の担当記者としてグラウンドに入った昭和39年、1964年あたりを振り返ってみたいと思います。

 1964年(昭和39年)というのは、前回の東京オリンピックの年です。

 東京オリンピックの放送ということで、東京の民間放送のアナウンサーは全員オリンピックの本部に駆り出され、ニッポン放送からも2人がオリンピックチームに取られました。そのため、プロ野球を担当するアナウンサーの数が少なくなり、私が仙台の東北放送からニッポン放送へやってきました。


ONとプロ野球人気の上昇


 その1964年は、オリンピックの開幕が10月10日。何が何でも、絶対そこまでにプロ野球を終えなければいけない。ということで、その年に限って、パシフィック・リーグは3月15日から30回総当たり、セントラル・リーグは3月22日から28回総当たりと、開幕日を早めてゲームを行いました。

 しかし終わってみると、ジャイアンツの観客動員が200万人という、当時としてはびっくりするような数字を記録しました。まさにこれがON人気。王さんがプロに入って5年目、長嶋さんは6年目、ONがこれから絶頂に向かうという中で、ジャイアンツは200万人、そしてセントラル・リーグ全体でも600万人入ったということは、当時大変話題になったのを覚えています。

 このあたりからプロ野球の人気が少しずつ上がってきました。

 ペナントレースの方は、東京オリンピックがあったということで東京のチームが遠慮したのか、日本シリーズは阪神タイガースと南海ホークス(現ソフトバンクホークス)の対戦になり、4勝3敗で南海が勝ちました。東京で日本シリーズがなかった訳で、うまい具合に全試合大阪で行われ、東京の人間はオリンピックに集中できたことを覚えています。


数々の歴史的な出来事


 その年はオリンピックが重なりましたが、振り返ると、王貞治さんが55号のホームランという日本記録をつくったこと、それから金田正一さんがシーズンオフにジャイアンツへ移籍して14年連続20勝したこと。そしてもう1つ、1964年にマッシー村上こと村上雅則さんが南海からサンフランシスコ・ジャイアンツへ野球留学し、日本人大リーガーとして初めて勝利をあげる(勉強のために行っていたが、サンフランシスコ・ジャイアンツがこいつは使えるぞということで、勝手にマッシーをローテーション投手として起用し、9月29日のカブス戦で勝利)など、色んなことがありました

 肝心の巨人は、投手陣に藤田元司、城之内邦雄、中村稔という3人がいたのですが、この主力3名が故障の連続で、とうとう一度も首位に立つことができず、3位に終わったことを覚えています。

 この年は大洋(現DeNA)の打線、桑田武、近藤和彦、クレスニック、それから阪神の投手陣、バッキー、村山実。この争いとなって、結果的に阪神タイガースが優勝するわけですけど、この1964年、私は初めてプロ野球のグラウンドに入り、あらためてプロ野球のすごさを感じたわけです。


ナイター中継の移り変わり


 そしてナイターの方はというと、1964年当時はニッポン放送もナイター中継をしていましたが、今のように全日ではなく土日だけでした。

 「ニッポン放送土曜ナイター」、「ニッポン放送日曜ナイター」とタイトルをつけていたことを覚えています。それから1965年(昭和40年)になって、ニッポン放送のナイターは土日をやめて、火・水・木で「ニッポン放送火曜ナイター」などという風に変わっていきます。

 ニッポン放送もTBSも全日で放送するということはなくて、その裏で実は全試合放送していたのが、ラジオたんぱ(現ラジオNIKKEI)でした。短波放送はプロ野球を全試合中継していたんです。

 ただし当時は音が非常に悪かったので、都内でもラジオたんぱを聞きにくい場所があったのですが、この“全試合やる”という、これに対するファンの信頼がかなり聞かれました。これを見ていたラジオ関東(現ラジオ日本)も1965年から全日ナイターに踏み切りました。

 しかし、ラジオたんぱの全日ナイターは音が悪くて聞きづらい、ラジオ関東の方は関東ローカル局なので日本中では聞けない。ということで、聞こえないところが増えてきました。ただし、聞こえるところでのナイター中継の人気はすごい。それを見て、1966年(昭和41年)、ニッポン放送とTBSが全日ナイターに踏み切り、1967年(昭和42年)にはニッポン放送は全日ナイターに“ショウアップナイター”というタイトルをつけて、それが今日まで続いているわけです。


ショウアップナイター=関根潤三


 最初のニッポン放送の解説は、中日の欠番になっている背番号10番をつけていた服部受弘さん、それから小さな大投手・浜崎真二さん、ジャイアンツのキャッチャーの楠安夫さん、大毎の中継ぎ投手の山根俊英さん、明治大学OBの児玉利一さん、こういった方が解説をつとめていました。

 しかし1966年、ショウアップナイターの前年から色んな声が出てきて、これだとどこの局だかわからない、この声が出てきたらニッポン放送だ、ということで声を1人に統一しようとなり、急きょ関根潤三さんに解説を依頼しました。

 本当は関根さんも近鉄(現オリックス)を辞めてジャイアンツに1年いて、その後アメリカに野球留学するはずでしたが、それを引き留めてから、関根潤三さんはニッポン放送の解説として席を置いているわけですね。


ショウアップナイターの元祖


 ショウアップナイターは明るく楽しい中継をしようということで、当時は中川正勝さんという方がディレクターというかプロデューサーでナイターを全部仕切っていたんですが、1966年、ショウアップナイターと命名する前年に、突然1カ月くらいいなくなってしまったんです。そして、中川さんはどこでさぼっているんだと言っていたら、アメリカへ野球を見に行ったと。

 「いいねぇ」と思いながらあの人が見に行ったってアナウンサーじゃないんだからと言っていたところに中川さんが帰ってきて、どうでしたと聞いたら、「各球場全部見てきた。向こうの球場のすごい盛り上がり、あの盛り上がりを放送で使うことができないかを研究してきて、いっぱい材料を持ってきたから、来年それをもとにニッポン放送のナイターを衣替えしたい」ということで、“ショウアップナイター"という名前を付けて、「だからお前たちも淡々とした放送ではなくてショウアップした良い放送をするんだ。基本的には言葉で絵を描くんだぞ。これを忘れずやれ」ということで非常にうるさく指導されました。

 それでジングルを使ったり、いろんな情報を入れたりして、今まで淡々と喋っていたナイターを衣替えさせたんです。それがそもそものショウアップナイターのスタートで、これが1967年のこと。それ以降、ショウアップナイターを土台として、色んな出来事がありました。


(ニッポン放送ショウアップナイター)
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