ニュース 2018.08.27. 11:30

戦争へと旅立ったプロ野球選手たち~68人の命【深澤弘のショウアップナイターヒストリー】

戦争とプロ野球


 今週はこの暑い夏の時期、いつも思い出す戦争のこと、それからプロ野球についてお話していきたいと思います

 夏のこの時期になると、日本の歴史を振り返って、2度と起こしてはいけない戦争とプロ野球選手のことが、よく話題になります。昭和12年、1937年、日本の世相は急速に戦争へと傾いていきます。

 7月7日の盧溝橋事件、8月9日の上海事変、8月15日の南京大爆撃。この昭和12年というのは、プロ野球が前年に産声を上げ、話題の中心になっていただけに、野球愛好家の戦争に対する思いというのは、一体この先どうなるのか、とみんな不安に思った時でした。

 しかしそうした野球愛好家の思いとは別に戦火は拡大し続け、じわじわプロ野球の世界にも波紋を広げていきます。戦前日本も若い男子が軍部に服する、いわゆる徴兵制が国民の義務としてありました。


元セ・リーグ会長の回顧録


 2年間の軍隊生活が終わると除隊になって帰って来るんですが、戦火が激しくなって兵力がだんだん足りなくなって来ると、除隊はいつになるか分からないという状態になって参りました。もちろん、軍部から帰らないということも覚悟しなければならなくなります。

 その時、プロ野球関係者にも戦火によって消える人が少しずつ増えていきます。元セントラル・リーグ連盟会長の鈴木龍二さんの回顧録を見てみますと、名古屋に後藤正という一塁手がいました。

立命館大学出身の後藤選手は満州の戦いで戦死したと伝えられ、幹部候補生として陣頭に立って奮戦した時は、プロ野球選手の勇敢さを示したものとして賞賛された。しかしまだ26歳の若さであった。後藤選手に限らず、プロ野球の選手はプロ野球選手としての自分に誇りを持って軍隊へ入った。いざ入営となると、野球の選手であった名前を傷つけてはいけないと、みんな注意深く生活を送った。



大友一明


ライオンズに大友一明というピッチャーがいて、その大友のところへ正月に、野球やっている最中に召集令状が舞い込んで来た。この頃、我々は鳴尾のみやこ旅館というところへ泊まっていた。この旅館で大友を囲んで送別の酒宴をやった。宴ということではなく、ただの酒飲みの会だったけれど、とにかく酒を酌み交わそうと思った。

大友は酒を飲めなかった。「おい、大友も一杯やれ!」皆が言うと、飲めないはずの大友が「はい、やります!」と一杯ずつ酒を飲んだ。

次の日試合になると大友が、「鈴木さん、僕に今日は投げさせて下さい。」と言うので、大友は確か肩を壊しているなぁ?と思いながら、本人が言うので、良いだろうということで勝負した。「よし、お前なら投げろ。」と言うと、彼は立派に1試合を投げ切った。そして次の日、さよならを告げて軍隊へ行ってしまった。そしてそのまま遂に帰って来ることはなかった。


中村三郎


ライオンズの内野手に中村三郎というのがいた。彼が召集令状を手にしたのは、長野県の旅館だった。夕食をとっていた時に、「中村さん、電話ですよー。」と呼び出された。その電話が召集令状だった。翌日名古屋との試合に出た中村はホームランを打った。中村は決してホームランバッターではなかったけれど、彼の思いがこもっていたのだろう。

その後、彼は郷里の長野県の諏訪へ帰った。大友や中村だけではなく、軍隊へ入る選手は誰もが最後になるかもしれないという大きな思いをグランドに残していった。普段と違う選手にいつも見えた。そして別れを告げて行ったもので、そのまま2度と会うことがない者も何人かいた。


大勢の尊い命


 昭和13年になると益々戦火は激しくなり、多くのプロ野球選手の戦火に散ってしまったという情報が入って来る。今のプロ野球の隆盛の礎を創った人々の尊い命、あるいは戦死したプレイヤーの名前はですね、野球殿堂、野球博物館、あるいは靖国神社に刻まれています。

 何人かの中からちょっと名前を拾ってみますと、慶応出身の小川年安さん、松山商業阪神の景浦將さん、日大ライオン南海の鬼頭数雄さん、京都商業巨人の沢村栄治さん、関西大学阪神の西村幸生さん、中京商業阪神の野口昇さん、熊本工業巨人の吉原正喜さん。こういった方を始め、とにかく大勢の方。手元には数えただけで68名の名前があります。

 今この時代にも、無念の思いをされた先人の苦労を忘れることなく、心に刻んで置くべきだと思います。


(ニッポン放送ショウアップナイター)

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