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知ってるようで意外と知らない!?プロ野球誕生譚【深澤弘のショウアップナイターヒストリー】

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長年にわたってショウアップナイターの実況を務めた“レジェンド”深澤弘スポーツアナウンサー [画像=ニッポン放送]

日本初のプロ野球は…


 深澤弘です。今年もどうぞ、よろしくお願いします。新年1回目、今週は日本のプロ野球の歴史を駆け足でいきたいと思います。

 その前に、私事で申し訳ないのですが、1月2日が誕生日で83回目の誕生日を過ごしました。その、私が生まれた昭和11年、1936年というのが、日本のプロ野球の初めてのゲームがあった日なんです。まだペナントレースとかそういう形にはなっていませんでしたけど、プロの野球が初めて1936年に行われました。

 日本に野球が持ち込まれたのは1876年、当時、アメリカへ鉄道車両の研究に行っていた平岡ひろしさんという新橋鉄道局に勤務していた鉄道マンが、野球を日本に持ってきました。それが実は日本に野球が入った最初だと言われています。

 平岡さんは新橋アスレチッククラブというチームを作りまして、初めての野球場も新橋あるいは三田、色んな説があるんですが、この辺につくられたということ。少しずつ野球を広めていったと言われています。

 この平岡さんが、日本で初めてカーブを投げたんです。ピッチャーをやってカーブを投げた。そしたら、日本中このカーブについて、「こんなボールは邪道だ。あれは卑怯だ。なんで真っすぐ投げないんだ」ということで、大論争になったそうですが、そんなことを経て野球が誕生しました。

 平岡ひろしさんは、野球を初めて日本に紹介した功績が評価され、殿堂入りし、その額がONや川上さんと一緒に野球博物館に飾られています。


散々な日米野球


 日本で野球が始まったのが1876年。そういう情報がアメリカにも伝わりまして、1908年、明治41年、日本の野球とはいったいどんなものだろうかと、向こうが興味を持ち、リーチオールアメリカンというチームを作って、船に乗ってはるばる試合をしにきたというか、視察にやってまいりました。

 このチームは、当時日本で最強と言われていた早稲田大学のチームを相手に、フラハティというピッチャーが、完全試合をやって、アメリカへ胸を張って帰っていきます。

 その後、1913年、大正2年、三田でニューヨークジャイアンツとシカゴホワイトソックスの一戦。1920年3Aのパシフィックコーストリーグのチームが来日して、早稲田慶應を相手に15戦全勝。そして、1922年に大リーグオールスターチームがやってきて、1931年(昭和6年)の秋には、ルー・ゲリッグ、レフティ・グローブ、フランク・オドールを中心としたチームが来ました。

 あまりにもひどい負け方ばかりで、これではみっともないということになり、初めてオールスターチームを作ってアメリカチームと対戦しようということになります。そこで、全日本チームをファン投票で選ぶことになりました。

 その結果、日本チームの主力選手は、ピッチャーが伊達正男(早稲田)、それから若林忠志(法政)、宮武三郎(慶應)、渡辺大陸(明治大学OB)、キャッチャーは久慈次郎(早稲田大学OB)、野手は山下実(慶應大学OB)、松木謙次郎(明治)、三原脩(早稲田)、水原茂(慶應)、苅田久徳(法政)、森茂雄(早稲田)といった、当時としては最高のメンバーを揃えてアメリカと対戦したんですが、やはり手も足も出ない。アメリカが17戦全勝。興業的には大成功で、どこに行っても満員となり、アメリカチームは巨額のギャラを手にして帰ったという事です。

 たった1試合だけ非常に良い試合を展開したのが、1934年11月20日のゲームだけで、これは、日本が0対1で敗れるんですが、静岡草薙球場で沢村栄治投手がアメリカチームを相手に非常に大胆なピッチングを展開して、被安打5、奪三振9、失点はルー・ゲリッグの本塁打による1本のみという歴史に残る非常に見事な試合を展開。この試合だけが、いわゆる日米野球で形になった試合でした。


ジャイアンツ誕生


 アメリカに大負けしたままでは、大和魂が泣くということで、アメリカチームの帰国後、1934年12月6日、大日本野球組合創立倶楽部というのが開かれ、野球関係者が集まって、強いチームを作ろうということになったんです。

 そして、1935年(昭和10年)1月14日、新しいチームが初めて静岡で練習をします。これが日本のプロ野球の初めてのスプリングキャンプと言われております。ここまでを一言で言うと簡単なんですが、大変な紆余曲折を経て、ようやく日本チームができました。

 しかし、日本には1チームしかないので、どうしてもリーグ戦をすることができない。そこでそのチームは、横浜から秩父丸という船に乗って、サンフランシスコへ渡ります。2月14日に横浜を出て、2月27日にサンフランシスコへ着くんですが、サンフランシスコの港には、歓迎東京ジャイアンツという横断幕が大きく出ていた。これを見て、このチームはジャイアンツという名前になり、今の讀賣ジャイアンツへ繋がっているわけです。

 このチームはアメリカに128日間滞在して、全部で2万キロ。大変な旅行をしまして、その間、75勝33敗、1つの引き分け。やったのは地方の民間チームとか、あるいは2A、3Aとか、もちろんメジャーは相手にしてくれませんので、そういうチームとやって、とにかく75勝して、帰ってきます。

 沢村栄治投手だけは非常にレベルが高く、3Aのチームを相手に4勝を挙げたそうです。色々過去の歴史を見ると、沢村さんは当時アメリカでもサイン攻めにあったそうです。


各地にもチームが誕生


 1935年の帰国後、まだ日本にはプロのチームが1チームしかできていないので、今度は日本中を旅して歩き。この間に讀賣新聞社社主の正力松太郎さんが他チームに参加を働きかけます。

 そして1935年、大阪野球倶楽部、これはのちのタイガース。それから大日本野球連盟名古屋支部、これがのちの中日ドラゴンズ、それから東京野球協会、これはセネタースという名前から後に東急になって東映になって、今の日本ハムになります。それから大阪阪急野球協会。これは、今のオリックスですね。こういったチームができます。

 しかし、リーグ誕生にはやはり時間がかかるということで、ジャイアンツは1936年、再びアメリカへ行きます。そして1936年、日本から「もう帰って来い」と。「そろそろチームができたんで、こっちへ帰ってきて試合をしてくれ」ということで、1936年の夏に、アメリカから引き返して日本に帰国し、1936年7月1日、東京戸塚球場、早稲田のかつての球場で、今は早稲田大学の大きな図書館になっていますけど、その東京戸塚球場で、日本職業野球連盟結成記念大会のゲームをやったわけです。

 このゲームを、NHKがラジオで放送したので、日本のラジオでの野球中継は1936年7月1日、これが第一声ということになります。その後は戦争などもあって、非常に苦しい時期もありましたけど、今の隆盛を見ているわけです。

 アメリカの大リーグが誕生して150年目、日本の高校野球が誕生して104年目、それから東京六大学野球が誕生して94年目で、プロ野球が83年目ということで、やはりプロ野球が一番の新興勢力なんです。ですから、どうも日本の場合は、アマチュアよりプロの方が低く見られることがあるのは、こういう歴史的な背景があるからではないかと思います。

 さて、今週のショウアップナイターヒストリーいかがでしたでしょうか。これからも楽しんでいただける裏話、とっておきの情報をお話したいと思います。どうぞお楽しみに。ではまた来週。深澤弘でした。


(ニッポン放送ショウアップナイター)

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