話題のアスリートの隠された物語を探る「スポーツアナザーストーリー」。本日は、5月1日の中日戦で「令和初の完投勝利」を飾った巨人・菅野智之投手のエピソードを取り上げる。
「悔しい。同じ1勝でも、僕は完封したかった」
エースの第一声は「嬉しい」ではなく「悔しい」でした。5月1日、東京ドームで行われた令和最初のゲーム・巨人-中日戦。巨人は初回に4点を先制。2回にキャプテン・坂本勇人が令和第1号ホームランを放てば、投げてはエース・菅野が7回に自身通算1000奪三振を達成。
8回まで5-0で完封ペースでしたが、9回、先頭から3連打を浴びて1点を返され、なおも1死満塁、ホームランが出れば同点のピンチを招きます。しかし、ここで動じないのが菅野。堂上を併殺打に打ち取り、完投で令和1番乗りの白星を挙げました。
歴史に残る記念すべき勝利にもかかわらず、菅野が「悔しい」と言ったのは、本人いわく「ブルペンに準備をさせてしまった」。クックの離脱で、いま抑えが不在の巨人。ここはすんなり完封して、リリーフ陣を休ませるのがエースの仕事、と考えているからです。
前回登板した4月25日のヤクルト戦では、青木、山田哲、バレンティンに3者連続ホームランを浴び、4回途中で7失点KO。平成最後の登板を白星で締めくくれなかっただけに、この試合に懸ける思いは、並々ならぬものがありました。
前回、直球とスライダーを主体にして、組み立てが単調になってしまった反省をふまえ、この日は序盤にカーブやフォークを織り交ぜるなど工夫。10奪三振を奪い、チーム打率リーグトップの中日打線に的を絞らせませんでした。同じ失敗を繰り返さず、すぐに修正できるのが菅野の長所です。
「もっと記録を残し、令和最初に勝った人だと言って、ピンとくる選手になりたい」
お立ち台でそう語った菅野。現状に満足せず、さらに上を目指す彼らしいコメントでした。
ところで、菅野は平成元年(=1989年)生まれ。令和元年・最初のゲームで、平成元年生まれのピッチャーが勝利を挙げたのは奇遇ですが、では「平成最初の勝利」を挙げたピッチャーは誰だったか、ご存じでしょうか?
いまからちょうど30年前、平成元年4月8日の開幕戦・巨人-ヤクルト戦に先発したのは、くしくも菅野と同じ「背番号18」を背負った巨人のエース・桑田真澄でした。
この年はセ・パ同時開幕でしたが、当時、巨人と同じ東京ドームを本拠地にしていた日本ハムが、福岡に誕生した新球団・ダイエーホークス(現・ソフトバンク)とナイターを行うため、巨人の試合はデーゲームで行われることに。昼夜2本立てという珍しい開幕戦だったのです。
この日の巨人のスタメンは、1番が中畑清(DeNA前監督)。そして4番が、巨人現監督の原辰徳。一方、ヤクルトの先発は尾花高夫(横浜元監督)、1番は栗山英樹(日本ハム現監督)という、いま見ると豪華な顔ぶれでした。指揮官は、巨人がこの年から復帰した藤田元司監督。ヤクルトは関根潤三監督です。
初回、巨人は中畑を3塁に置き、原がいきなりレフトスタンドに開幕初打席ホームランを放って先制。しかも、通算250号のおまけ付きでした。ダイヤモンドを1周する間、両腕を天高く、3度も突き上げ、喜びをあらわにした原。
それだけではありません。3回の第2打席で、再びレフトスタンドへ2打席連続アーチを叩き込んだのです。巨人の4番打者が開幕戦で2本アーチを放ったのは、63年の長嶋茂雄以来、実に26年ぶりのことでした。
主砲に心強い援護をもらった桑田は、当時プロ4年目の21歳。前年に続き、2年連続で大役を任されましたが、エースの貫禄を見せて完投で逃げ切り、6-2で巨人が快勝。桑田は「平成最初の勝ち投手」になったのです。
桑田はその後も快調に白星を重ね、この年自己最多の17勝を挙げて、リーグ優勝と8年ぶりの日本一に貢献しました。今年は、5年ぶりのペナント奪回が至上命題の巨人。平成初勝利を挙げた桑田のように、令和初勝利を挙げた菅野がチームを牽引できるのか? エースの真価が問われるのは、これからです。
「悔しい。同じ1勝でも、僕は完封したかった」
エースの第一声は「嬉しい」ではなく「悔しい」でした。5月1日、東京ドームで行われた令和最初のゲーム・巨人-中日戦。巨人は初回に4点を先制。2回にキャプテン・坂本勇人が令和第1号ホームランを放てば、投げてはエース・菅野が7回に自身通算1000奪三振を達成。
8回まで5-0で完封ペースでしたが、9回、先頭から3連打を浴びて1点を返され、なおも1死満塁、ホームランが出れば同点のピンチを招きます。しかし、ここで動じないのが菅野。堂上を併殺打に打ち取り、完投で令和1番乗りの白星を挙げました。
歴史に残る記念すべき勝利にもかかわらず、菅野が「悔しい」と言ったのは、本人いわく「ブルペンに準備をさせてしまった」。クックの離脱で、いま抑えが不在の巨人。ここはすんなり完封して、リリーフ陣を休ませるのがエースの仕事、と考えているからです。
前回登板した4月25日のヤクルト戦では、青木、山田哲、バレンティンに3者連続ホームランを浴び、4回途中で7失点KO。平成最後の登板を白星で締めくくれなかっただけに、この試合に懸ける思いは、並々ならぬものがありました。
前回、直球とスライダーを主体にして、組み立てが単調になってしまった反省をふまえ、この日は序盤にカーブやフォークを織り交ぜるなど工夫。10奪三振を奪い、チーム打率リーグトップの中日打線に的を絞らせませんでした。同じ失敗を繰り返さず、すぐに修正できるのが菅野の長所です。
「もっと記録を残し、令和最初に勝った人だと言って、ピンとくる選手になりたい」
お立ち台でそう語った菅野。現状に満足せず、さらに上を目指す彼らしいコメントでした。
ところで、菅野は平成元年(=1989年)生まれ。令和元年・最初のゲームで、平成元年生まれのピッチャーが勝利を挙げたのは奇遇ですが、では「平成最初の勝利」を挙げたピッチャーは誰だったか、ご存じでしょうか?
いまからちょうど30年前、平成元年4月8日の開幕戦・巨人-ヤクルト戦に先発したのは、くしくも菅野と同じ「背番号18」を背負った巨人のエース・桑田真澄でした。
この年はセ・パ同時開幕でしたが、当時、巨人と同じ東京ドームを本拠地にしていた日本ハムが、福岡に誕生した新球団・ダイエーホークス(現・ソフトバンク)とナイターを行うため、巨人の試合はデーゲームで行われることに。昼夜2本立てという珍しい開幕戦だったのです。
この日の巨人のスタメンは、1番が中畑清(DeNA前監督)。そして4番が、巨人現監督の原辰徳。一方、ヤクルトの先発は尾花高夫(横浜元監督)、1番は栗山英樹(日本ハム現監督)という、いま見ると豪華な顔ぶれでした。指揮官は、巨人がこの年から復帰した藤田元司監督。ヤクルトは関根潤三監督です。
初回、巨人は中畑を3塁に置き、原がいきなりレフトスタンドに開幕初打席ホームランを放って先制。しかも、通算250号のおまけ付きでした。ダイヤモンドを1周する間、両腕を天高く、3度も突き上げ、喜びをあらわにした原。
それだけではありません。3回の第2打席で、再びレフトスタンドへ2打席連続アーチを叩き込んだのです。巨人の4番打者が開幕戦で2本アーチを放ったのは、63年の長嶋茂雄以来、実に26年ぶりのことでした。
主砲に心強い援護をもらった桑田は、当時プロ4年目の21歳。前年に続き、2年連続で大役を任されましたが、エースの貫禄を見せて完投で逃げ切り、6-2で巨人が快勝。桑田は「平成最初の勝ち投手」になったのです。
桑田はその後も快調に白星を重ね、この年自己最多の17勝を挙げて、リーグ優勝と8年ぶりの日本一に貢献しました。今年は、5年ぶりのペナント奪回が至上命題の巨人。平成初勝利を挙げた桑田のように、令和初勝利を挙げた菅野がチームを牽引できるのか? エースの真価が問われるのは、これからです。