ニュース 2019.07.25. 17:00

ロマンか酷使か? 日本野球の「エースシステム」誕生の歴史(前編)

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「球数制限」問題は、昨今始まったものではなく、日本に野球が伝わった直後から起こっていた。つまり「日本の野球文化」と深い関わりがある。ここでは日本の野球史を紐解き、「球数制限」議論のルーツを解き明かす。




■萌芽の時期からあった「エースシステム」


日本にアメリカから野球が伝わってきたのは1871(明治4)年前後とされる。アメリカから来たお雇い外国人、英語教師のホーレス・ウィルソンが、第一中学、現在の東京大学で野球の手ほどきをした。
曲折はあったが、ウィルソンらお雇い外国人の教え子が全国に野球を広めたとされる。最初の強豪チームは、第一中学の後身の第一高校学校だった。「一高時代」といわれ、明治の野球に画期をなす黄金期を迎えた。
初期の日本野球は、横浜居留地の米国人チームを倒すことを目標にしていたが、大男揃いで力も強いアメリカに対抗するために、少ない得点を好投手が守り切る戦法が取られるようになった。一人の投手が先発完投するスタイル(これを「エースシステム」と呼ぶ)は原初の日本野球にすでに存在したのだ。
日本最初の本格的なエースと言えるのが左腕投手の守山恒太郎(1880-1912)だ。1899(明治32)年に第一高等学校に入学した守山は横浜外国人チームに負けたことから発奮し、猛練習を重ねた。投げ込みすぎたために左肘が曲がってしまった守山は、大学寮の前の桜の木に左手1本でぶら下がり、痛みに耐えながら左手を伸ばしたという。チームメイトは感涙にむせんだ。守山の力投は「一高時代」の華と言って良い。
明治から大正期に入って、大学野球が日本中の人気を博するようになり、早稲田の谷口五郎、慶應の小野三千麿など、各大学のエースが花形になり、新聞紙上をにぎわせるようになる。

■甲子園の熱狂が始まる


1915年に大阪朝日新聞の主催で、現在の高校野球の全身である「全国中等学校優勝野球大会」が始まると、中等学校にも野球ブームが到来した。中等学校の生徒を指導したのは、東京六大学などで野球をした大学上がりの指導者だった。このために野球のスタイルは大学野球譲りであり、「エースが投げて守り勝つ」という「エースシステム」が主流だった。
大学野球、中等学校野球の指導的立場にあった早稲田出身のジャーナリストの飛田穂洲(1865―1965)は、日本独自の野球のスタイルを「一球入魂」と名付けている。
1924(大正13)年には、毎日新聞社主催の選抜中等学校野球大会が始まる。またこの歳、甲子園球場が開場し、中等学校野球は爆発的な人気を博した。中等学校とそれに相当する専門学校(商業学校、実業学校、工業学校、農業学校など)、師範学校で野球部が創設され、大学野球のスタイルを踏襲した野球指導が行われた。

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