話題のアスリートの隠された物語を探る「スポーツアナザーストーリー」。今回は、8月22日に行われた全国高校野球選手権・決勝で、悲願の初優勝を逃した石川代表・星稜高校にまつわるエピソードを取り上げる。
「奥川君にチームを大きくしてもらった。選手が力を出し切ってくれた」(履正社・岡田龍生監督)
22日に幕を閉じた、第101回全国高校野球選手権。大阪代表・履正社が勝って、甲子園初優勝を決めました。履正社と星稜は、今年(19年)春のセンバツ1回戦で当たっており、星稜のエース・奥川恭伸が履正社打線を3安打完封。17奪三振のおまけも付き、履正社は完敗を喫したのです。
この屈辱的な敗戦から「好投手を打ち込めるだけの打線を作らないと、甲子園では頂点に立てない」と痛感した岡田監督は、選手たちの筋力を低下させないため、これまで冬場だけ行って来たウエイトトレーニングを、トレーナーの指導の下、シーズンが始まった5月~6月にも継続させました。
これが実って、履正社打線は甲子園で6試合連続2ケタ安打を記録。好投手を次々と攻略し、決勝でも、春は歯が立たなかった奥川から5点を奪って初優勝。岡田監督の「奥川君にチームを大きくしてもらった」というコメントは、敗戦こそ勝利への糧になることを物語っています。
一方星稜も、甲子園ではこれまで何度も苦杯をなめて来たチームです。野球部は62年に創部。春のセンバツに13回、夏の大会は20回登場している名門ですが、春・夏ともに優勝は未経験。今回は、95年以来24年ぶり2度目の決勝進出で、悲願達成の絶好のチャンスでしたが、またしても準優勝。北陸勢初優勝もお預けとなりました。
今回もそうですが、これまで数々の名勝負を展開。敗れても、高校野球ファンに鮮烈な印象を残して来た星稜の「夏の甲子園史」を振り返ってみましょう。
まずは高校野球史上、屈指の名勝負として語り継がれている79年夏の「箕島(和歌山代表)-星稜 延長18回の死闘」です。3回戦で両校は対戦。4回に星稜が1点を先制しますが、その裏に箕島が同点に追い付き、試合は1-1のまま延長戦に突入しました。延長12回・16回と、星稜は2度勝ち越しますが、箕島はいずれも起死回生の同点本塁打で追い付きます。引き分け再試合寸前の18回ウラ、箕島はサヨナラヒットで試合を決め、星稜は涙を飲みました。
惜しかったのは、星稜1点リードで迎えた12回ウラ、2死無走者の場面で、一塁方向に上がったファールフライを、一塁手が転倒、捕り損ねたシーンです。直後に同点アーチが飛び出しました。野球の怖さでもありますが、最後まで絶対に諦めてはいけないことを教えてくれる名試合でもあります。
92年夏は、超高校級スラッガー・松井秀喜が主砲を務めた星稜。2回戦で明徳義塾と対戦しましたが、明徳義塾の馬淵史郎監督は、春のセンバツで3本塁打を放った松井の長打力を警戒し、バッテリーに全打席敬遠を指示。「5打席連続敬遠」という前代未聞の事態が起こり、試合は3-2で明徳義塾が勝利。松井はこの試合、1度もバットを振ることなく、甲子園を後にしたのです。この敬遠策は「そこまでして勝つのはどうなのか」と当時大きな論議を呼びましたが、星稜は再び「負けて名を残した」のです。
そして95年夏、北陸勢初の優勝を懸けて臨んだ星稜は、決勝で西東京代表・帝京と対戦。1点を先制しますが、1-3と逆転され悲願達成はならず。24年後の今年も、リベンジはなりませんでした。
この歴史をふまえた上で……今大会の決勝戦終了後、星稜OBの松井秀喜氏が、こんなコメントを発表しました。
「結果は残念でしたね。見ていましたよ。決勝戦だけではなくて、インターネットで全試合見てました。でも、仕方がないです。勝者と敗者が必ず出てしまうのが野球です」
「決勝戦も非常にいい試合でした。7回の同点劇の攻撃なんか、素晴らしかった」
と後輩たちを讃えたあと、こう記しました。
「智弁和歌山戦以降、爆発しましたね。いままでの星稜だったら、智弁和歌山に負けて終わり。甲子園での死闘は必ず敗者になった。あの試合に勝てたことは、いままでの星稜の歴史を変えてくれたと思います。令和元年、101回目の甲子園で、何か新しい歴史が始まる感じがしました」
準々決勝で、延長14回・タイブレークの死闘の末、優勝候補の智弁和歌山を下した星稜。エース・奥川が23奪三振を奪い完投勝ちしたこの試合は、あの箕島戦からちょうど40年後。相手はくしくも、箕島と同じ和歌山代表でした。
「でも、ここで優勝できないのが、星稜。母校のそういうところも大好きです。何か新たな宿題が残った感じですね」
そう言って、現在の1年生・2年生にエールを送った松井氏。これから林和成監督がどんなチームを作り、新しい歴史を創って行くのか、星稜の今後に注目です。
「奥川君にチームを大きくしてもらった。選手が力を出し切ってくれた」(履正社・岡田龍生監督)
22日に幕を閉じた、第101回全国高校野球選手権。大阪代表・履正社が勝って、甲子園初優勝を決めました。履正社と星稜は、今年(19年)春のセンバツ1回戦で当たっており、星稜のエース・奥川恭伸が履正社打線を3安打完封。17奪三振のおまけも付き、履正社は完敗を喫したのです。
この屈辱的な敗戦から「好投手を打ち込めるだけの打線を作らないと、甲子園では頂点に立てない」と痛感した岡田監督は、選手たちの筋力を低下させないため、これまで冬場だけ行って来たウエイトトレーニングを、トレーナーの指導の下、シーズンが始まった5月~6月にも継続させました。
これが実って、履正社打線は甲子園で6試合連続2ケタ安打を記録。好投手を次々と攻略し、決勝でも、春は歯が立たなかった奥川から5点を奪って初優勝。岡田監督の「奥川君にチームを大きくしてもらった」というコメントは、敗戦こそ勝利への糧になることを物語っています。
一方星稜も、甲子園ではこれまで何度も苦杯をなめて来たチームです。野球部は62年に創部。春のセンバツに13回、夏の大会は20回登場している名門ですが、春・夏ともに優勝は未経験。今回は、95年以来24年ぶり2度目の決勝進出で、悲願達成の絶好のチャンスでしたが、またしても準優勝。北陸勢初優勝もお預けとなりました。
今回もそうですが、これまで数々の名勝負を展開。敗れても、高校野球ファンに鮮烈な印象を残して来た星稜の「夏の甲子園史」を振り返ってみましょう。
まずは高校野球史上、屈指の名勝負として語り継がれている79年夏の「箕島(和歌山代表)-星稜 延長18回の死闘」です。3回戦で両校は対戦。4回に星稜が1点を先制しますが、その裏に箕島が同点に追い付き、試合は1-1のまま延長戦に突入しました。延長12回・16回と、星稜は2度勝ち越しますが、箕島はいずれも起死回生の同点本塁打で追い付きます。引き分け再試合寸前の18回ウラ、箕島はサヨナラヒットで試合を決め、星稜は涙を飲みました。
惜しかったのは、星稜1点リードで迎えた12回ウラ、2死無走者の場面で、一塁方向に上がったファールフライを、一塁手が転倒、捕り損ねたシーンです。直後に同点アーチが飛び出しました。野球の怖さでもありますが、最後まで絶対に諦めてはいけないことを教えてくれる名試合でもあります。
92年夏は、超高校級スラッガー・松井秀喜が主砲を務めた星稜。2回戦で明徳義塾と対戦しましたが、明徳義塾の馬淵史郎監督は、春のセンバツで3本塁打を放った松井の長打力を警戒し、バッテリーに全打席敬遠を指示。「5打席連続敬遠」という前代未聞の事態が起こり、試合は3-2で明徳義塾が勝利。松井はこの試合、1度もバットを振ることなく、甲子園を後にしたのです。この敬遠策は「そこまでして勝つのはどうなのか」と当時大きな論議を呼びましたが、星稜は再び「負けて名を残した」のです。
そして95年夏、北陸勢初の優勝を懸けて臨んだ星稜は、決勝で西東京代表・帝京と対戦。1点を先制しますが、1-3と逆転され悲願達成はならず。24年後の今年も、リベンジはなりませんでした。
この歴史をふまえた上で……今大会の決勝戦終了後、星稜OBの松井秀喜氏が、こんなコメントを発表しました。
「結果は残念でしたね。見ていましたよ。決勝戦だけではなくて、インターネットで全試合見てました。でも、仕方がないです。勝者と敗者が必ず出てしまうのが野球です」
「決勝戦も非常にいい試合でした。7回の同点劇の攻撃なんか、素晴らしかった」
と後輩たちを讃えたあと、こう記しました。
「智弁和歌山戦以降、爆発しましたね。いままでの星稜だったら、智弁和歌山に負けて終わり。甲子園での死闘は必ず敗者になった。あの試合に勝てたことは、いままでの星稜の歴史を変えてくれたと思います。令和元年、101回目の甲子園で、何か新しい歴史が始まる感じがしました」
準々決勝で、延長14回・タイブレークの死闘の末、優勝候補の智弁和歌山を下した星稜。エース・奥川が23奪三振を奪い完投勝ちしたこの試合は、あの箕島戦からちょうど40年後。相手はくしくも、箕島と同じ和歌山代表でした。
「でも、ここで優勝できないのが、星稜。母校のそういうところも大好きです。何か新たな宿題が残った感じですね」
そう言って、現在の1年生・2年生にエールを送った松井氏。これから林和成監督がどんなチームを作り、新しい歴史を創って行くのか、星稜の今後に注目です。