フリーアナウンサーの節丸裕一が、スポーツ現場で取材したコラムを紹介。今回は、15勝4敗、防御率2点台と大活躍し、ジャイアンツのセ・リーグ優勝に大きく貢献した山口俊を取り上げる。
原監督は8回宙に舞った。今季から3度目の監督として指揮をとり、過去2度の監督時代12年間で7度セ・リーグを制している名将にとって、8度目の優勝。現役時代の背番号も「8」だった。
原監督は「ひとつになる、という点ではいままでにない素晴らしいチーム」と振り返った。首脳陣も選手も球団職員も一丸となっていたように思える。
誰かひとりが欠ければなし得なかったかもしれない今シーズンの優勝だが、原監督が「ぶっちぎりのMVPだと思います」と言うキャプテン坂本勇人、新加入の丸、たくましさを増した岡本和真、前に出なくても存在感を発揮した阿部慎之助、故障に苦しみながらも11勝で貯金を5も作った菅野智之の力も大きかった。
そんななか、今年(2019年)はもっと脚光を浴びても良いだろう、と感じたのが山口俊。優勝が決まった9月21日終了時の成績を見ると、最多勝と最高勝率は当確の15勝4敗。完投はなくても投球回はチーム最多で自身最多の163回を数え、防御率は2点台。奪三振数もリーグトップの181。日本ハム有原航平と沢村賞を争う成績だ。
2005年の高校生ドラフトで横浜(現DeNA)から1巡目指名を受けた山口は、高卒1年目に先発でデビューしたが、3年目にリリーフに転向して頭角を現すと、4年目の途中からはクローザーとなり、2012年には史上最年少で通算100セーブを達成した。その後、先発に再転向。選手会長を務めていた2016年秋にFA宣言して、DeNAから巨人に移籍した。
当時の涙の会見、DeNA戦登板時の古巣ファンからの大ブーイング、重圧と怪我による不調、いろいろなことがあった。グラウンド外でのトラブルもあり、厳しい批判にさらされた。体は大きいが、元来、繊細で優しい気持ちの持ち主。当時の大バッシングで落ち込まないはずはなかった。
「でも、だからこそ僕は変われたと思います」
トラブルについてはもちろん反省した。そして野球をやらせてもらえることに感謝した。球団に感謝した。そして「野球で結果を出して行くしかない」という答えに行き着いた。できることはそれしかない。そうすることでしか球団やファンに恩を返すこともできない。何より大切な家族を守る術だったはずだ。
歳を重ねることによる体の変化も感じ、食事や睡眠など生活面も見直した。
今年の好成績の要因を尋ねると、「単純に肩の痛みが取れた。肩の状態が良くて、1年を通して、コンディションが悪い日が少なかった。それだけですよね」と答えた。だが、コンディションを保つことができたのは偶然ではなく、自身の心がけがあったからに他ならない。それでも「僕が投げるときは打線の援護もあったし、守りでも目に見えないような好プレーをたくさんしてもらった。失点を防ぐという部分で、その方が大きかったぐらい、いつも助けてくれたチームメイトには感謝してもしきれないです」と嬉しそうに話す。
「野球で結果を出す」ということは、個人成績以上に「優勝すること」だと思っていたという山口。「優勝するために力になること。2年間、あまり貢献できなかったし、今年はある程度チームの力になれて、チームが優勝できた。それが本当に嬉しい」。
山口は周知の通り元幕内力士の谷嵐を父に持つ。もう5年以上も前のこと、「僕の体の大きさと柔らかさは親のおかげ」と亡き父に感謝していた山口は、父親が廃業後にはじめた飲食店のちゃんこを「絶対に日本一うまいんで、1度食べに来てくださいよ」と話していた。亡くなった父親への愛情を強く感じたのを覚えている。
「ベイスターズには感謝もあるし、育ててもらった恩もある。でも、いまは本当に心からジャイアンツの一員としてプレーできている。だから、ベイスターズ相手とか、横浜でというより、できればホームの東京ドームで決めたかった。でも、優勝は1日でも早く決めたいんで、きょう決められてよかった」。
次の目標は、もちろん、日本一。そのためのクライマックスシリーズ。「目の前の1戦1戦を積み重ねて行って、日本一になりたいですね」。
心優しく繊細だった山口は、苦難を乗り越え、たくましさを身につけて、ひと回りもふた回りも大きく見えた。
原監督は8回宙に舞った。今季から3度目の監督として指揮をとり、過去2度の監督時代12年間で7度セ・リーグを制している名将にとって、8度目の優勝。現役時代の背番号も「8」だった。
原監督は「ひとつになる、という点ではいままでにない素晴らしいチーム」と振り返った。首脳陣も選手も球団職員も一丸となっていたように思える。
誰かひとりが欠ければなし得なかったかもしれない今シーズンの優勝だが、原監督が「ぶっちぎりのMVPだと思います」と言うキャプテン坂本勇人、新加入の丸、たくましさを増した岡本和真、前に出なくても存在感を発揮した阿部慎之助、故障に苦しみながらも11勝で貯金を5も作った菅野智之の力も大きかった。
そんななか、今年(2019年)はもっと脚光を浴びても良いだろう、と感じたのが山口俊。優勝が決まった9月21日終了時の成績を見ると、最多勝と最高勝率は当確の15勝4敗。完投はなくても投球回はチーム最多で自身最多の163回を数え、防御率は2点台。奪三振数もリーグトップの181。日本ハム有原航平と沢村賞を争う成績だ。
2005年の高校生ドラフトで横浜(現DeNA)から1巡目指名を受けた山口は、高卒1年目に先発でデビューしたが、3年目にリリーフに転向して頭角を現すと、4年目の途中からはクローザーとなり、2012年には史上最年少で通算100セーブを達成した。その後、先発に再転向。選手会長を務めていた2016年秋にFA宣言して、DeNAから巨人に移籍した。
当時の涙の会見、DeNA戦登板時の古巣ファンからの大ブーイング、重圧と怪我による不調、いろいろなことがあった。グラウンド外でのトラブルもあり、厳しい批判にさらされた。体は大きいが、元来、繊細で優しい気持ちの持ち主。当時の大バッシングで落ち込まないはずはなかった。
「でも、だからこそ僕は変われたと思います」
トラブルについてはもちろん反省した。そして野球をやらせてもらえることに感謝した。球団に感謝した。そして「野球で結果を出して行くしかない」という答えに行き着いた。できることはそれしかない。そうすることでしか球団やファンに恩を返すこともできない。何より大切な家族を守る術だったはずだ。
歳を重ねることによる体の変化も感じ、食事や睡眠など生活面も見直した。
今年の好成績の要因を尋ねると、「単純に肩の痛みが取れた。肩の状態が良くて、1年を通して、コンディションが悪い日が少なかった。それだけですよね」と答えた。だが、コンディションを保つことができたのは偶然ではなく、自身の心がけがあったからに他ならない。それでも「僕が投げるときは打線の援護もあったし、守りでも目に見えないような好プレーをたくさんしてもらった。失点を防ぐという部分で、その方が大きかったぐらい、いつも助けてくれたチームメイトには感謝してもしきれないです」と嬉しそうに話す。
「野球で結果を出す」ということは、個人成績以上に「優勝すること」だと思っていたという山口。「優勝するために力になること。2年間、あまり貢献できなかったし、今年はある程度チームの力になれて、チームが優勝できた。それが本当に嬉しい」。
山口は周知の通り元幕内力士の谷嵐を父に持つ。もう5年以上も前のこと、「僕の体の大きさと柔らかさは親のおかげ」と亡き父に感謝していた山口は、父親が廃業後にはじめた飲食店のちゃんこを「絶対に日本一うまいんで、1度食べに来てくださいよ」と話していた。亡くなった父親への愛情を強く感じたのを覚えている。
「ベイスターズには感謝もあるし、育ててもらった恩もある。でも、いまは本当に心からジャイアンツの一員としてプレーできている。だから、ベイスターズ相手とか、横浜でというより、できればホームの東京ドームで決めたかった。でも、優勝は1日でも早く決めたいんで、きょう決められてよかった」。
次の目標は、もちろん、日本一。そのためのクライマックスシリーズ。「目の前の1戦1戦を積み重ねて行って、日本一になりたいですね」。
心優しく繊細だった山口は、苦難を乗り越え、たくましさを身につけて、ひと回りもふた回りも大きく見えた。