話題のアスリートの隠された物語を探る「スポーツアナザーストーリー」。今回は、2月11日に訃報が伝えられた、故・野村克也氏にまつわるエピソードを取り上げる。
祝日の11日に突然飛び込んで来た、野村克也氏急逝の報せ(享年84)。球界だけでなく、世間にも大きな衝撃を与えました。
野村氏は1954年、京都・峰山高校からテスト生として南海ホークスに入団。叩き上げで正捕手の座をつかみ、打っては「8年連続本塁打王」(1961~1968年)「戦後初の三冠王」(1965年)など輝かしい記録を樹立。その後、ロッテ・西武で“生涯一捕手”としてプレーし、1980年に45歳で引退するまで、通算3017試合に出場。これは中日・谷繁元信に抜かれるまで史上1位の記録でした。
監督としても、南海(選手兼任)・ヤクルト・阪神・楽天の4球団で指揮を執り、通算5度のリーグ優勝と、3度の日本一を経験。データを重視し、頭を使って野球をする「ID野球」を日本球界に浸透させたのは、紛れもなく野村氏の功績です。
かつての教え子たちの追悼コメントも続々と寄せられていますが、江夏豊(元南海)、古田敦也(元ヤクルト)、新庄剛志(元阪神)、田中将大(元楽天)……その人数の多さと、顔ぶれの豪華さには驚くばかりです。
今季(2020年)に指揮を執る12球団の監督のうち、現役時代に野村監督の下でプレーした経験のある“野村チルドレン”は、阪神・矢野監督、ヤクルト・高津監督、西武・辻監督、楽天・三木監督、日本ハム・栗山監督と5人もいるこの事実。
指導を受けた誰もが「野村監督との出逢いが、野球人生の転機になった」と語っているように、現在の日本球界は“ノムラ遺産”で成り立っていると言っても過言ではないでしょう。
「野村再生工場」という言葉も、野村氏の功績を象徴するワードです。
他球団をお払い箱になった選手を獲得。潜在能力を引き出し、新たな働き場所を与え、再び輝かせる手腕はノムさんならではのものでした。
野村氏が再生させた選手のなかで、筆者がとくに印象に残っているのは山﨑武司です。中日時代の1996年、松井秀喜と本塁打王を争い、39本を放って初のタイトルを手にした山﨑。
ところが翌1997年から、中日は狭いナゴヤ球場から、広いナゴヤドームへホームグラウンドを移転。その影響もあって、山﨑の本塁打は半分以下の19本に激減してしまいました。
その後、山﨑は首脳陣との確執もあって2002年オフ、トレードを志願しオリックスへ移籍。しかし2004年オフ、在籍わずか2年で戦力外通告を受けてしまいます。
「あのときは引退するつもりだった」と語る山﨑。中日OB・田尾監督の説得を受けて選んだ新天地が、仙台に誕生した新球団・楽天イーグルスでした。2005年オフ、田尾監督が1年で辞任すると、その後を受け継いだのが野村監督です。
当時「ノムさんとは、絶対にウマが合わないと思う」と語っていた山﨑。初対面のときは、野球に対する姿勢だけでなく、人間性まで含めて「全否定された」そうですが、いざ懐に飛び込んでみると、だんだん可愛がってもらえるようになりました。
職人肌の選手や、走攻守揃った選手を好むイメージがある野村監督ですが、実は山﨑のように豪快に振って行く選手も大好きでした。自身もホームラン打者だったので、「大きいのを打ちたい」という気持ちはよくわかるのです。
「監督から『野球を好きになりなさい。子どものころ、日が暮れるまで野球をやって楽しかったころの気持ちで野球に取り組みなさい』という言葉をもらい、もう1度真剣に野球と向き合うことができました」(山﨑武司・追悼コメントより)
もともと、外国人並みのパワーを誇っていた山﨑。データの有効な使い方、投手心理もふまえた配球の読み方などを野村監督から教わり、さらに高いレベルで野球に取り組んだことで、2007年、自己最多の43本塁打・108打点をマーク。11年ぶりに本塁打王のタイトルを獲得すると同時に、打点王の2冠に輝きました。
2009年にも、41歳となるシーズンに39本塁打・107打点を記録。2012年から古巣・中日に復帰し、45歳となる2013年限りで27年間の現役生活にピリオドを打ちましたが、1度は引退を考えたベテラン選手が、ここまで見事に復活した例は記憶にありません。
「僕の27年間の現役のなかで野村監督は4年間だったんですけれども、いちばん濃い4年間を送らせていただいた」(山﨑武司・追悼コメントより)
山﨑氏に限らず、野村監督が選手たちの意識を変え、「自ら考える野球」を辛抱強く植え付けて行った結果、2009年、楽天は球団創設後初の2位に躍進。初めてクライマックスシリーズ(CS)に進出し、ファーストステージは3位・ソフトバンクを地元・仙台に迎えて対戦しました。
ところが……理由はわかりませんが、球団は野村監督との契約を延長せず、CS中に解雇が決定したのです。以降「野村監督と少しでも長く一緒に野球がしたい。日本シリーズまで勝ち続けよう!」……それが楽天ナインの総意となりました。
第1戦、エース・岩隈久志が完投勝利を挙げた楽天は、第2戦、もう1人の若きエース・3年目の田中将大がマウンドへ。田中はソフトバンク打線に決め手を与えず、5回、4番・山﨑が3ランを左翼席に叩き込み、試合を決めました。
ダイヤモンドを一周し、ベンチに戻って来た山﨑を満面の笑みで迎え、抱擁した野村監督。いつも冷静な野村監督にしては、非常に珍しい光景でした。
「あんなの初めてかな? 監督の喜ぶ顔が見られて嬉しいよ!」(山﨑)
田中は9回を1失点に抑え、無四球完投。最後の打者を打ち取った瞬間、田中は声を上げてガッツポーズを見せ、楽天は初のファーストステージ突破を決めました。
筆者はこの試合、楽天ファンで埋まったレフトスタンドで生観戦していましたが、試合終了後、選手とともに野村監督がスタンドまで挨拶に来ると、自然と「野村コール」が湧き起こりました。あちこちから「ノムさん、ありがとう!」という声が聞こえ、なかには涙ぐんでいる人も……。
野村監督が、いかに地元ファンに愛されているかを実感しましたし、4年後の2013年に達成された球団史上初のリーグV・日本一は、野村監督時代の地道な“種蒔きと地ならし”があってこそ実現したのだと思います。
結局、ファイナルステージでは日本ハムに敗れましたが、NPBでは最後の試合となった第4戦終了後、敵地・札幌ドームで、両軍の選手から胴上げされた野村監督。このとき日本ハム側には、当時まだ現役だったヤクルト時代の教え子・稲葉篤紀がいました。
野球日本代表=侍ジャパンの指揮官に就任し、東京五輪で金メダル獲得を目指す稲葉監督。
「感謝の気持ちしかない。オリンピックの年なので、見守ってくださいと言いました」(12日、野村氏宅へ弔問に訪れた際のコメント)
……まだまだ、ノムさんの話は尽きません。次回は、筆者が野村氏に直接選んでいただいた「昭和~平成・プロ野球最強ベストナイン」の話をご紹介します。
祝日の11日に突然飛び込んで来た、野村克也氏急逝の報せ(享年84)。球界だけでなく、世間にも大きな衝撃を与えました。
野村氏は1954年、京都・峰山高校からテスト生として南海ホークスに入団。叩き上げで正捕手の座をつかみ、打っては「8年連続本塁打王」(1961~1968年)「戦後初の三冠王」(1965年)など輝かしい記録を樹立。その後、ロッテ・西武で“生涯一捕手”としてプレーし、1980年に45歳で引退するまで、通算3017試合に出場。これは中日・谷繁元信に抜かれるまで史上1位の記録でした。
監督としても、南海(選手兼任)・ヤクルト・阪神・楽天の4球団で指揮を執り、通算5度のリーグ優勝と、3度の日本一を経験。データを重視し、頭を使って野球をする「ID野球」を日本球界に浸透させたのは、紛れもなく野村氏の功績です。
かつての教え子たちの追悼コメントも続々と寄せられていますが、江夏豊(元南海)、古田敦也(元ヤクルト)、新庄剛志(元阪神)、田中将大(元楽天)……その人数の多さと、顔ぶれの豪華さには驚くばかりです。
今季(2020年)に指揮を執る12球団の監督のうち、現役時代に野村監督の下でプレーした経験のある“野村チルドレン”は、阪神・矢野監督、ヤクルト・高津監督、西武・辻監督、楽天・三木監督、日本ハム・栗山監督と5人もいるこの事実。
指導を受けた誰もが「野村監督との出逢いが、野球人生の転機になった」と語っているように、現在の日本球界は“ノムラ遺産”で成り立っていると言っても過言ではないでしょう。
「野村再生工場」という言葉も、野村氏の功績を象徴するワードです。
他球団をお払い箱になった選手を獲得。潜在能力を引き出し、新たな働き場所を与え、再び輝かせる手腕はノムさんならではのものでした。
野村氏が再生させた選手のなかで、筆者がとくに印象に残っているのは山﨑武司です。中日時代の1996年、松井秀喜と本塁打王を争い、39本を放って初のタイトルを手にした山﨑。
ところが翌1997年から、中日は狭いナゴヤ球場から、広いナゴヤドームへホームグラウンドを移転。その影響もあって、山﨑の本塁打は半分以下の19本に激減してしまいました。
その後、山﨑は首脳陣との確執もあって2002年オフ、トレードを志願しオリックスへ移籍。しかし2004年オフ、在籍わずか2年で戦力外通告を受けてしまいます。
「あのときは引退するつもりだった」と語る山﨑。中日OB・田尾監督の説得を受けて選んだ新天地が、仙台に誕生した新球団・楽天イーグルスでした。2005年オフ、田尾監督が1年で辞任すると、その後を受け継いだのが野村監督です。
当時「ノムさんとは、絶対にウマが合わないと思う」と語っていた山﨑。初対面のときは、野球に対する姿勢だけでなく、人間性まで含めて「全否定された」そうですが、いざ懐に飛び込んでみると、だんだん可愛がってもらえるようになりました。
職人肌の選手や、走攻守揃った選手を好むイメージがある野村監督ですが、実は山﨑のように豪快に振って行く選手も大好きでした。自身もホームラン打者だったので、「大きいのを打ちたい」という気持ちはよくわかるのです。
「監督から『野球を好きになりなさい。子どものころ、日が暮れるまで野球をやって楽しかったころの気持ちで野球に取り組みなさい』という言葉をもらい、もう1度真剣に野球と向き合うことができました」(山﨑武司・追悼コメントより)
もともと、外国人並みのパワーを誇っていた山﨑。データの有効な使い方、投手心理もふまえた配球の読み方などを野村監督から教わり、さらに高いレベルで野球に取り組んだことで、2007年、自己最多の43本塁打・108打点をマーク。11年ぶりに本塁打王のタイトルを獲得すると同時に、打点王の2冠に輝きました。
2009年にも、41歳となるシーズンに39本塁打・107打点を記録。2012年から古巣・中日に復帰し、45歳となる2013年限りで27年間の現役生活にピリオドを打ちましたが、1度は引退を考えたベテラン選手が、ここまで見事に復活した例は記憶にありません。
「僕の27年間の現役のなかで野村監督は4年間だったんですけれども、いちばん濃い4年間を送らせていただいた」(山﨑武司・追悼コメントより)
山﨑氏に限らず、野村監督が選手たちの意識を変え、「自ら考える野球」を辛抱強く植え付けて行った結果、2009年、楽天は球団創設後初の2位に躍進。初めてクライマックスシリーズ(CS)に進出し、ファーストステージは3位・ソフトバンクを地元・仙台に迎えて対戦しました。
ところが……理由はわかりませんが、球団は野村監督との契約を延長せず、CS中に解雇が決定したのです。以降「野村監督と少しでも長く一緒に野球がしたい。日本シリーズまで勝ち続けよう!」……それが楽天ナインの総意となりました。
第1戦、エース・岩隈久志が完投勝利を挙げた楽天は、第2戦、もう1人の若きエース・3年目の田中将大がマウンドへ。田中はソフトバンク打線に決め手を与えず、5回、4番・山﨑が3ランを左翼席に叩き込み、試合を決めました。
ダイヤモンドを一周し、ベンチに戻って来た山﨑を満面の笑みで迎え、抱擁した野村監督。いつも冷静な野村監督にしては、非常に珍しい光景でした。
「あんなの初めてかな? 監督の喜ぶ顔が見られて嬉しいよ!」(山﨑)
田中は9回を1失点に抑え、無四球完投。最後の打者を打ち取った瞬間、田中は声を上げてガッツポーズを見せ、楽天は初のファーストステージ突破を決めました。
筆者はこの試合、楽天ファンで埋まったレフトスタンドで生観戦していましたが、試合終了後、選手とともに野村監督がスタンドまで挨拶に来ると、自然と「野村コール」が湧き起こりました。あちこちから「ノムさん、ありがとう!」という声が聞こえ、なかには涙ぐんでいる人も……。
野村監督が、いかに地元ファンに愛されているかを実感しましたし、4年後の2013年に達成された球団史上初のリーグV・日本一は、野村監督時代の地道な“種蒔きと地ならし”があってこそ実現したのだと思います。
結局、ファイナルステージでは日本ハムに敗れましたが、NPBでは最後の試合となった第4戦終了後、敵地・札幌ドームで、両軍の選手から胴上げされた野村監督。このとき日本ハム側には、当時まだ現役だったヤクルト時代の教え子・稲葉篤紀がいました。
野球日本代表=侍ジャパンの指揮官に就任し、東京五輪で金メダル獲得を目指す稲葉監督。
「感謝の気持ちしかない。オリンピックの年なので、見守ってくださいと言いました」(12日、野村氏宅へ弔問に訪れた際のコメント)
……まだまだ、ノムさんの話は尽きません。次回は、筆者が野村氏に直接選んでいただいた「昭和~平成・プロ野球最強ベストナイン」の話をご紹介します。