戦時中も行われてきた野球
皆さんご機嫌いかがですか、深澤弘です。残念ながら、なかなかプロ野球は始まりません。事情が事情だけに、もう少し我慢しなければいけないところだと思います。
プロ野球というのは、こういった様々な事態に強く、全試合が中止になることはあまりありませんでした。今までも、地震や大きな台風の影響を受けたことはありましたが、台風があっても日本のどこかではやっていました。
ナゴヤ球場は昔、火事で外野スタンドが燃えたこともありました。もちろん野球なんかできませんが、他の球場を使用してやっていた。高速道路の渋滞で、野球道具が到着せずに中止ということもありましたけど、全部の球場ではありませんからね。
全部の球場が中止となると、選手によるストライキがありました。あの時ぐらいで、戦争中でも、日本の野球は力強くやっていたことを覚えています。1941年(昭和16年)に太平洋戦争が始まりますけれど、その始まる前6月14日、日本とアメリカの関係が非常に険悪になって危ないということで、日系二世選手、当時はハワイから日系の選手が来ていましたので、彼らは荷物をまとめて、アメリカに帰りました。
それでも日本の野球界は、いよいよ戦争というときもリーグ戦をずっと続けていました。その翌年、1942年(昭和17年)は、4月10日に東京への空襲がありまして、後楽園球場で行われるはずだった阪急軍と黒鷲軍、大洋軍と名古屋軍、このダブルヘッダーが中止になっています。
世界情勢が険悪な中でも試合をやっていたんですが、そんな中で選手が続々と戦地へ招集されまして、選手の顔ぶれも、だいぶ少なくなってきました。しかし、そんな戦時中でも、8月29日には伝統のある一戦は続けようという事で、《東西対抗》が行われました。
1943年(昭和18年)は、選手全員が、戦闘帽(戦時下の兵隊さんの格好)で、試合をするようになります。この辺りから、野球場にも戦争の匂いが漂ってきて、それと同時に、野球用語が日本語になります。
ストライクは「よし」、ボールは「だめ」、という風に、すべて日本語化して試合をしました。そんな事からも、世の中が切迫した事情が分かります。ちなみに、試合中に警戒警報が鳴りまして、8月18日のジャイアンツ戦が中止になるという、突発的な事件も起こりました。
1944年(昭和19年)には、まだまだ戦争が続いていたんですが、全球団が今度は産業戦、なんとか産業っていう産業戦。興行じゃなくて、産業の戦いだと称して、試合を続けていました。
参加チームは6球団で、巨人軍、阪神軍、阪急軍、産業軍、朝日軍、それから近畿日本軍という、後の南海、今のソフトバンクになるチーム。この6球団で、しぶとく行いました。3回戦総当り、但し試合は土曜・日曜のみ。戦地では難しい戦いが続いていましたが、野球の方はこの国内で残っている人間で続けたわけです。
11月13日には、ついに戦争が激しくなりまして、日本野球連盟はリーグ戦の一時中止を宣言。ここで初めて日本の野球の火が途絶えたわけですが、この間に多くの選手が戦場に招集され、戦死するという悲しい事件が起きました。
1945年(昭和20年)は、まだ戦争が続いておりまして、後楽園球場が爆撃を受けます。スコアボードの一部が破損しますが、後楽園球場の大部分はそのまま残っておりました。それから8月6日には今度は甲子園球場が爆撃され、甲子園もやはり一部がやられただけで済みました。
その中で神宮球場だけは無傷だったんです。おそらくアメリカが上空から見て、東京を占領した時には、この神宮球場を、我々が使おうという事で、神宮球場は手を出さなかった訳ですが、その通り戦争が終わると、この神宮球場は、アメリカ軍に接収されました。
1945年11月23日、その神宮球場で復活東西対抗、これは日本のゲームですが終わりました。とにかく戦争の終わったその年に、神宮球場で野球が復活したということで、本当に日本の中では根強いものがあります。
いろんな選手が、グラブ・ミット・ボール・バットなど、全部、隠して持っていたんですね。で、当時は用具の支給なんて出来ませんから、全部持ち寄って試合をやって、1946年(昭和25年)には、ついにその延長で、リーグ戦が再開しました。
日本のプロ野球は強かったんですけれど、理由が理由だけに、今度の場合はどうしようもない。選手の皆さんも、ちょっとイライラしてるかもしれないですけど、それはファンの皆さんも同じで、ただ情勢が情勢ですから、あまり贅沢な事は言えません。
過去の歴史を振り返ってみても、この新型コロナウイルスの影響で日本のプロ野球が中止になったという事は、後々大きく歴史に残りそうです。
(ニッポン放送ショウアップナイター)
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