ニュース 2020.12.03. 17:58

水島新司『あぶさん』のモデルは二刀流の先駆者だった

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野球漫画「あぶさん」の作者・水島新司氏 インタビュー=2003年04月25日 写真提供:産経新聞社
話題のアスリートの隠された物語を探る「スポーツアナザーストーリー」。今回は、水島新司さんのマンガ『あぶさん』のモデルになった1人で、元近鉄・日本ハムのスラッガー・永淵洋三選手にまつわるエピソードを取り上げる。

12月1日に「きょうまで63年間頑張って参りましたが、本日を以(もっ)て引退することに決めました」と引退を表明した、マンガ家の水島新司さん。「マンガで野球殿堂入りするのが夢」とよく口にされていましたが、その殿堂入り候補も辞退したことが明らかになりました。ファンとしては残念ですが、長い間、お疲れ様でした。

代表作『ドカベン』を読んで甲子園を目指し、プロになった選手は大勢いますし、他にも『男どアホウ甲子園』『野球狂の詩』『一球さん』『球道くん』などなど、水島作品をきっかけに野球好きになった方も多いでしょう。筆者もその1人で、特に夢中になったのが『あぶさん』です。

1973年に「ビッグコミックオリジナル」で連載が始まったとき、「南海ホークスの選手が主人公」という設定には驚きました。当時はスポーツニュースでも、パ・リーグの情報は試合結果が伝えられる程度。オールスターか日本シリーズでもない限り、パの選手のプレーを見る機会はほとんどなかったのです。

そんな時代に始まった『あぶさん』には毎回、実在のパの選手たちが続々登場。たびたび作中に現れた阪急・今井雄太郎(昭和最後の完全試合を達成した投手)はじめ、「パにはこんなに魅力的な選手がいるのか」と、毎号かじりつくように読んでいました。

連載開始当時、主人公・景浦安武が所属する南海を指揮していたのは野村克也・選手兼監督。ノムさんはまだ現役の正捕手であり4番で、マンガのなかでも「頼れるボス」でした。筆者が「パ・リーグ箱推し」になったのは、間違いなく水島さんの影響です。

当初は「呑んべえの代打男」で、物干し竿と呼ばれた長いバットのグリップに「ブフォッ」と酒しぶきを噴きかけていた景浦。その個性的なキャラクターは、複数の選手の逸話をもとに水島さんが創作したものです。モデルの1人になったのが、近鉄・日本ハムでプレーしたスラッガー・永淵洋三です。まさに当時のパ・リーグを体現する豪快な選手でした。今回は、まるでマンガのような“永淵伝説”をいくつかご紹介しましょう。

佐賀出身で、1967年、社会人野球の東芝からドラフト2位で、投手として近鉄バファローズに入団した永淵。1年目ですでに26歳というオールドルーキーでした。もともとプロ志向が強く、1965年に西鉄ライオンズ(現西武)の入団テストを受けますが、不合格。悔しさからヤケ酒に走ります。

その酒代がどんどんかさんで行き、30万円に(いまの貨幣価値で言うと数百万でしょうか)。当時の永淵の給料は3万円。とても返せず「やはり、プロに行くしかない」と決意してすがったのが、佐賀高校の先輩でもある、東芝の伊丹安広監督(元早稲田大学監督、のちに野球殿堂入り)でした。

伊丹監督は、早大の先輩が球団社長を務める近鉄を紹介。つまり永淵は「呑み代を返すために」縁故採用でドラフト指名してもらい、プロ入りしたというわけです(このあたりが、『あぶさん』のヒントになったようです)。契約金300万円で、永淵は無事借金を精算。当初、プロで長くやる気はなかったそうですが、縁というのは面白いもので、1年目の1968年、近鉄の監督に就任したのが知将・三原脩でした。

巨人・西鉄・大洋で監督を務めていた三原監督。特に1960年、前年まで6年連続最下位だった大洋ホエールズ(現DeNA)を日本一に導いた手腕は「三原マジック」と高く評価されました。戦力不足から低迷が続いていた近鉄は、その「マジック」を期待して知将を三顧の礼で迎えたのです。

その三原監督がキャンプ中、「コイツは面白いぞ」と目を付けたのが、ルーキー・永淵でした。投手として入団し、打撃練習はまったくやっていなかった永淵に、三原監督は紅白戦で「代打」を命じ、永淵は持ち前の打撃センスで、初球いきなりヒットを打ってみせました。

身長168センチ、体重65キロとチーム内でもっとも小柄ながら、パワーもあって俊足……その能力を見抜いていた三原監督は、戦力不足を補うため、入団時から永淵を投打両方で使おうと考えていたようです。この紅白戦のヒットで、バットの芯に当てる能力と、リストの強さを確認した三原監督。ヒットを打った永淵も、三原監督の慧眼も恐るべしです。

永淵が脚光を浴びたのが、1968年4月16日、当時のホーム・日生球場で行われた東映フライヤーズ(現日本ハム)戦でした。2回ウラ、代打で登場した永淵は、ピッチャーが「ちょっと新人を脅してやれ」と胸元いっぱいに投げ込んだ初球を、左打席からヒジをたたんで弾き返し、舞い上がった打球は右翼席中段へ。これがプロ初本塁打となりました。

強烈な名刺代わりとなった1発。“永淵劇場”はこれで終わりません。永淵はダイヤモンドを1周すると、グラブを持ってブルペンへ向かい、すぐに投球練習を始めたのです。スタンドがざわつくなか、攻守変わって3回表、三原監督は主審に告げました。「ピッチャー・永淵!」

「投手・永淵」は5回途中まで、2回2/3を投げて2安打1失点と、リリーバーとしてもしっかり仕事をしてみせました。さらに降板後もベンチへ退かず、右翼の守備につき、そのまま打席にも立った永淵。試合は乱打戦の末、7-6で近鉄がサヨナラ勝ち。「二刀流ルーキー」は勝利にみごと貢献してみせたのです。

三原監督はこの後もしばらく、投打両方で永淵を起用。6月途中で「もう投げんでいいぞ」と打者に専念させました。投手としては12試合に投げて0勝1敗、19回1/3を投げて9奪三振、防御率2.84という記録が残っています。永淵本人は、のちに300勝投手となる同僚・鈴木啓示のピッチングを見て「自分は投手では通用しない」と悟ったそうです。

とはいえ、2013年に大谷翔平が「二刀流ルーキー」としてデビューする45年も前に、二刀流を実践していた永淵。当時「代打・永淵」が告げられるたびにスタンドが沸き「代打しました永淵が、そのままピッチャーに入ります」でまた沸き返ったとか。これは「世間の目を少しでもパ・リーグに向けさせたい」と考えた三原監督の戦略でもあったのですが、まさにマンガの世界です。

開幕から打者に専念、外野手としてレギュラーの座をつかんだ2年目の1969年は、リーグトップの162安打を記録。打率.333であの張本勲(当時東映)と首位打者を分け合いました。残り2試合の時点で、永淵はすでに全日程を終えていた張本より打率が上でしたが、チームに優勝の可能性があったため試合に出場。打率を下げ、単独首位打者を逃すことに……こういった話も、マンガの題材になりそうなエピソードです。

永淵はプロに入ってからも酒量は減らず、“酒豪伝説”のエピソードもたくさんあります。二日酔いのままグラウンドに立つこともしばしばありました。筆者が好きな話は、永淵が首位打者を獲った1969年、オールスターゲームに初出場したときのエピソードです。

この年の第3戦は、福岡・平和台球場で行われました。地元・佐賀に近かったため、試合前夜、故郷で旧友たちと徹夜で呑んだ永淵。そのまま寝ないで、後輩に車で球場まで送ってもらうと、昼過ぎに到着。「まだ練習まで時間があるな」と、何と再び呑みに行ったのです。酩酊した状態で打席に立ち、第1打席、巨人・堀内恒夫から本塁打をかっ飛ばした話は、いまも語り草になっています。

その後も、金田正一・高橋一三からヒットを打ち、巨人の3枚看板をナデ切りにした永淵。カッコいいにも程がありますが、本人いわく「酔っぱらってるから、本当はボールがよく見えてなかったんです(笑)」。

永淵は1976年、恩師・三原脩氏が球団社長を務めていた日本ハムに移籍し、1979年に引退。その後スカウトに転身しましたが、球界を離れ、1980年に故郷・佐賀で焼鳥の店を始めました。2018年まで38年間続いたそのお店の名前は……「あぶさん」でした。
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