話題のアスリートの隠された物語を探る「スポーツアナザーストーリー」。今回は、東日本大震災から10年にちなみ、震災の年(2011年)の楽天・田中将大投手にまつわるエピソードを取り上げる。
震災からちょうど10年を迎えた2021年3月11日、楽天は静岡でロッテとオープン戦を行いました。プレイボール前に、両軍の選手・監督・コーチが整列し、1分間の黙祷。スコアボードには半旗が掲げられました。
ちょうど10年前(2011年)の3月11日、地震が発生したとき、楽天は兵庫県明石市で今回と同じくロッテとオープン戦を行っていました。まさかこのあと、4月7日まで1ヵ月近くも本拠地・仙台に帰れなくなるとは思いもせず……。
当時、選手の間では、想像を絶する被害を見て「すぐ仙台に帰りましょう」という声も多かったそうです。しかしチームは、他地域で試合をしながら開幕に向けて調整を続ける選択をしました。被災地の状況を慮ったのと、本拠地球場(当時の名称は「Kスタ宮城」)や球団の施設が地震で大きな被害を受けており、とても試合や練習ができる状態ではなかったからです。
大事な家族を仙台に残した選手たちにとっては「野球どころじゃない」というのが本音だったでしょう。そのような状況で1ヵ月もロードゲームを続けていた心中を思うと、本当に辛かったと思います。今年(2021年)、メジャーから楽天に復帰した田中将大もその1人でした。
田中は、地震発生時刻の午後2時46分、チームと離れ新幹線に乗っていました。横浜スタジアムで行われる次戦に備え、先乗りで移動中だったのです。ところが、横浜に着く前に新幹線が停車。田中は途中下車し、名古屋で泊まりました。その後チームと横浜で合流。仙台に戻るまでの約1ヵ月間、田中はどんな心境だったのでしょうか?
よく「こういうときだからこそ、野球で勇気を」という言葉を聞きますが、その前にプレーする選手と、観に来るファン双方に心の余裕がなければ試合は成り立ちません。あくまで平時であってこそのプロ野球なのです。
4月7日にようやく仙台に戻り、津波被害に遭った被災地を訪れた田中は、あまりの惨状に「言葉にならなかった」と語っています。2011年の開幕は4月12日に延期されましたが、楽天は球場の修復工事に時間が掛かり、4月15日に行われたオリックスとのホーム開幕戦は甲子園球場を借りて行うことになりました。
この試合、先発のマウンドに立ったのは田中でした。兵庫出身の田中にとって、甲子園は地元であり、駒大苫小牧高校2年時に夏の大会連覇を果たした思い出の地。阪神監督だった星野仙一監督(当時)にとってもゆかりの地であり、2人とも心中期するところがあったでしょう。
試合は楽天が松井稼頭央の先頭打者ホームランで先制。田中は3回をノーヒットに抑えますが、4回、T-岡田に同点タイムリーを打たれ、6回には再びT-岡田から勝ち越しのタイムリーを打たれてしまいます。
しかし、東北のファンのためにも、絶対にこの試合は落とせないと楽天打線が奮起。逆転された直後の6回ウラ、先頭の鉄平が四球で出塁すると、山崎武司が同点のタイムリー三塁打を放ち(巨体を揺すっての激走でした)、岩村明憲の犠飛でこの回2点を挙げ、3-2と逆転します。
味方の援護に田中も応えました。8回、一死二塁のピンチを迎えましたが、坂口智隆(現ヤクルト)・伊藤光(現DeNA)を連続で空振り三振に斬ってとり無得点に抑えます。9回、北川博敏を併殺打に仕留めて完投勝利。最後はマウンドで“雄叫び”も飛び出しました。
ヒーローインタビューで、田中はこう語っています。
「高校時代は1塁ベンチで負けました」というのは、2006年夏の甲子園で、早稲田実業・斎藤佑樹(現日本ハム)と投げ合った決勝戦のことです。駒大苫小牧は夏の大会3連覇の偉業が懸かっていましたが、両者譲らず、試合は引き分け再試合に。
再試合では、田中は疲労を考慮され、リードされた場面からのリリーフ登板となりました。結局逆転できず、しかも自身が最後のバッターとなり3連覇を逃した田中。あのときの悔しさを5年後、こういう形で晴らすことになるとは本人も思っていなかったでしょう。地元での開幕を待ちわびるファンにとっても、大きなプレゼントとなりました。
それから2週間後……4月29日に仙台で行われた「地元開幕戦」のマウンドに立ったのも、もちろん田中でした。スタジアムを埋めた2万613人の前で、再び完投勝利を挙げ、ファンを沸かせた田中。このとき、田中はお立ち台でこうコメントしました。
田中は2011年、シーズン中も被災地を訪問。ヤンキースに移籍したあとも、2017年から被災地の小学校を訪れ、片時も被災地のことを忘れていませんでした。楽天復帰会見の際にも語ったとおり、今年が「震災から10年目」という節目の年であったことも、古巣復帰を後押しする大きな理由になりました。
目指すは、2013年以来の日本一。10日、「日本一になることで、東北に与える影響や意義は?」という記者の質問に、田中はこう答えています。
田中の公式戦復帰初登板について、石井一久GM兼監督は「開幕2戦目・3月27日」と明言しています。「ともに戦う」ファンの前でどんなピッチングを見せてくれるのか、いまから楽しみでなりません。
震災からちょうど10年を迎えた2021年3月11日、楽天は静岡でロッテとオープン戦を行いました。プレイボール前に、両軍の選手・監督・コーチが整列し、1分間の黙祷。スコアボードには半旗が掲げられました。
ちょうど10年前(2011年)の3月11日、地震が発生したとき、楽天は兵庫県明石市で今回と同じくロッテとオープン戦を行っていました。まさかこのあと、4月7日まで1ヵ月近くも本拠地・仙台に帰れなくなるとは思いもせず……。
当時、選手の間では、想像を絶する被害を見て「すぐ仙台に帰りましょう」という声も多かったそうです。しかしチームは、他地域で試合をしながら開幕に向けて調整を続ける選択をしました。被災地の状況を慮ったのと、本拠地球場(当時の名称は「Kスタ宮城」)や球団の施設が地震で大きな被害を受けており、とても試合や練習ができる状態ではなかったからです。
大事な家族を仙台に残した選手たちにとっては「野球どころじゃない」というのが本音だったでしょう。そのような状況で1ヵ月もロードゲームを続けていた心中を思うと、本当に辛かったと思います。今年(2021年)、メジャーから楽天に復帰した田中将大もその1人でした。
田中は、地震発生時刻の午後2時46分、チームと離れ新幹線に乗っていました。横浜スタジアムで行われる次戦に備え、先乗りで移動中だったのです。ところが、横浜に着く前に新幹線が停車。田中は途中下車し、名古屋で泊まりました。その後チームと横浜で合流。仙台に戻るまでの約1ヵ月間、田中はどんな心境だったのでしょうか?
『「(仙台が)どういう状況になっているのか分からなかった。自分の家のこともあったし、チームには家族だったりがいても帰れないからという人もいて、気持ち的になかなか野球に集中するのは難しい状況だった」
−−気持ちの切り替えは
「切り替えは100%は無理でしたね。やっぱり、こんな状況になっている中で野球を本当にやってていいのかという気持ちはずっとあった」』
~『サンケイスポーツ』2021年3月11日配信記事 より
よく「こういうときだからこそ、野球で勇気を」という言葉を聞きますが、その前にプレーする選手と、観に来るファン双方に心の余裕がなければ試合は成り立ちません。あくまで平時であってこそのプロ野球なのです。
4月7日にようやく仙台に戻り、津波被害に遭った被災地を訪れた田中は、あまりの惨状に「言葉にならなかった」と語っています。2011年の開幕は4月12日に延期されましたが、楽天は球場の修復工事に時間が掛かり、4月15日に行われたオリックスとのホーム開幕戦は甲子園球場を借りて行うことになりました。
この試合、先発のマウンドに立ったのは田中でした。兵庫出身の田中にとって、甲子園は地元であり、駒大苫小牧高校2年時に夏の大会連覇を果たした思い出の地。阪神監督だった星野仙一監督(当時)にとってもゆかりの地であり、2人とも心中期するところがあったでしょう。
試合は楽天が松井稼頭央の先頭打者ホームランで先制。田中は3回をノーヒットに抑えますが、4回、T-岡田に同点タイムリーを打たれ、6回には再びT-岡田から勝ち越しのタイムリーを打たれてしまいます。
しかし、東北のファンのためにも、絶対にこの試合は落とせないと楽天打線が奮起。逆転された直後の6回ウラ、先頭の鉄平が四球で出塁すると、山崎武司が同点のタイムリー三塁打を放ち(巨体を揺すっての激走でした)、岩村明憲の犠飛でこの回2点を挙げ、3-2と逆転します。
味方の援護に田中も応えました。8回、一死二塁のピンチを迎えましたが、坂口智隆(現ヤクルト)・伊藤光(現DeNA)を連続で空振り三振に斬ってとり無得点に抑えます。9回、北川博敏を併殺打に仕留めて完投勝利。最後はマウンドで“雄叫び”も飛び出しました。
ヒーローインタビューで、田中はこう語っています。
『東北のみなさん、やりました! この甲子園球場で、高校時代は1塁ベンチで負けました。しかし、今日は1塁ベンチで勝つことができたので、本当に良かったと思います。皆さんの応援のおかげでした! ありがとうございました!!!(場内大歓声)』
~『プロ野球・東北楽天ゴールデンイーグルスオフィシャルサイト』2011年4月15日「ゲームレポート」より
「高校時代は1塁ベンチで負けました」というのは、2006年夏の甲子園で、早稲田実業・斎藤佑樹(現日本ハム)と投げ合った決勝戦のことです。駒大苫小牧は夏の大会3連覇の偉業が懸かっていましたが、両者譲らず、試合は引き分け再試合に。
再試合では、田中は疲労を考慮され、リードされた場面からのリリーフ登板となりました。結局逆転できず、しかも自身が最後のバッターとなり3連覇を逃した田中。あのときの悔しさを5年後、こういう形で晴らすことになるとは本人も思っていなかったでしょう。地元での開幕を待ちわびるファンにとっても、大きなプレゼントとなりました。
それから2週間後……4月29日に仙台で行われた「地元開幕戦」のマウンドに立ったのも、もちろん田中でした。スタジアムを埋めた2万613人の前で、再び完投勝利を挙げ、ファンを沸かせた田中。このとき、田中はお立ち台でこうコメントしました。
『この日を待ちわびていました。今日は特別な試合になるという準備をして、この日を迎えることが出来ました。ファンのみなさんと一つになって勝つことが出来ました。』
~『プロ野球・東北楽天ゴールデンイーグルスオフィシャルサイト』2011年4月29日「ゲームレポート」より
田中は2011年、シーズン中も被災地を訪問。ヤンキースに移籍したあとも、2017年から被災地の小学校を訪れ、片時も被災地のことを忘れていませんでした。楽天復帰会見の際にも語ったとおり、今年が「震災から10年目」という節目の年であったことも、古巣復帰を後押しする大きな理由になりました。
目指すは、2013年以来の日本一。10日、「日本一になることで、東北に与える影響や意義は?」という記者の質問に、田中はこう答えています。
『それは分からないです。それはなってみないと。でもそれが何かマイナスになることは絶対ないでしょうけどね。また盛り上がってくれるとうれしい。実際に応援してくださる方々の声は届いていますし、またみんなで喜びを分かち合いたいと思っている。そこに向けて、みんなで一緒に戦っていきたい』
~『サンケイスポーツ』2021年3月11日配信記事 より
田中の公式戦復帰初登板について、石井一久GM兼監督は「開幕2戦目・3月27日」と明言しています。「ともに戦う」ファンの前でどんなピッチングを見せてくれるのか、いまから楽しみでなりません。