話題のアスリートの隠された物語を探る「スポーツアナザーストーリー」。今回は、10月1日に現役引退を発表した北海道日本ハムファイターズ・斎藤佑樹投手にまつわるエピソードを取り上げる。
斎藤佑樹、ついに引退。
プロ11年で1軍88試合に登板し、15勝26敗、防御率4.34。期待の大卒ドラフト1位選手であったことを思うと、物足りなさが残る数字であることは否めません。ただ、「野球人・斎藤佑樹」としての足跡は、プロ11年だけで語るわけにはいかない厚みと濃厚さがあります。
2006年夏の甲子園では、試合を重ねるたびに球速が上がり、比例するようにファンのボルテージもアップ。決勝では田中将大を擁する駒大苫小牧との引き分け再試合という伝説の戦いを制し、名門・早稲田実業に初優勝の栄冠をもたらしました。
100年以上の歴史と人気を誇る高校野球では、何年かに1度、時代を象徴する「選手」と「試合」が生まれ、人気も再燃。2006年の斎藤佑樹もそんな「甲子園スター」の代表格として存在したことは間違いありません。
実際、あの決勝戦を現地で観戦し、その後の野球人生に大きな影響を受けた人物がいます。日本ハムの後輩であり、早稲田実業高の後輩でもある清宮幸太郎です。
清宮の父と言えば、ラグビー界のレジェンド・清宮克幸氏。幸太郎少年もそんな父の影響で、幼少期からラグビーに熱中していたと言います。にもかかわらず、「野球で生きて行く」と決めたのは、小学1年生のとき、甲子園決勝で「WASEDA」のユニフォーム姿で奮闘する斎藤佑樹の姿を生で目撃したからでした。
引退発表から2日後の10月3日、斎藤はファームでラスト登板。ケガに苦しんだ斎藤が、プロで最も汗を流したファイターズ2軍の本拠地・鎌ケ谷スタジアムでした。投球前に涙が止まらず、1度プレートを外す場面もありましたが、DeNAの乙坂に対して132キロのストレートで空振り三振を奪って有終の美を飾りました。このとき、投球前に声をかけ、そして投球後にハグを交わした相手こそ、一塁を守っていた清宮だったのです。
斎藤佑樹を語る上で、やはり「WASEDA」を外すことはできません。そして、今回の引退報道においてあまり語られていないこと、それこそが早稲田大学時代の斎藤佑樹の偉業です。野球人・斎藤佑樹を語る上で、実は甲子園での熱投よりも、そしてプロでの11年よりも、早稲田大学での4年間で残した「数字」と「実績」こそ、球史に輝く偉大なものなのです。
入学直後の東京六大学野球春季リーグでいきなりリーグ最多の4勝を挙げ、1年春の投手では史上初となるベストナインに選出。さらに、その後の大学選手権でも準決勝、決勝で2勝を挙げるなど、早稲田大の33年ぶり日本一に貢献。大会史上初となる1年生でのMVPに選ばれたのです。前年夏の甲子園優勝投手がその翌年、大学1年で大学選手権の優勝投手になること自体、史上初の快挙でした。
その後も大学時代を通してコンスタントに好成績を収め、4年間で61試合に登板して31勝15敗。323奪三振、防御率1.77という見事な成績を残しています。この「30勝&300奪三振」こそ、もっと語られてしかるべき偉業です。
プロ野球の世界に数多くの名投手を輩出して来た東京六大学で、通算30勝以上はこれまで22人、通算300奪三振以上は16人。ただ、両方達成できたのは、秋山登(明治大→大洋)、江川卓(法政大→巨人)、織田淳哉(早稲田大→巨人)、三澤興一(早稲田大→巨人)、加藤幹典(慶應義塾大→ヤクルト)の5人だけ。斎藤は史上6人目の快挙でした。その後、野村祐輔(明治大→広島)も達成しています。
そんな「早稲田大学の斎藤佑樹」に刺激を受けたひとりが、佛教大学のエースだった大野雄大(中日)です。今回の斎藤引退に際して、こんなコメントを残しています。
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また、「早稲田の斎藤」が残した功績は、野球の数字だけではありません。彼の知名度・人気ぶりで、日本テレビがリーグ戦の動画無料配信をスタート。ラジオでもニッポン放送が斎藤の登板試合を何度も実況中継しました。
最近でこそ、各大学リーグのネット中継や動画配信は一般的になりましたが、斎藤の登場以前はNHKが注目度の高い早慶戦のみを放送するだけ。普段のリーグ戦の視聴機会が増えたのは、紛れもなく「早稲田の斎藤」のおかげです。
ここ10年は地方大学リーグからも続々と好選手がプロの門を叩いていますが、もともと注目度の高い東京六大学を映像でカバーできるようになったことで、スカウトが地方大学もチェックできるようになった、という見方もできるはず。
今回の引退の報を受け、改めて「高校から即プロに入っていれば違ったのかなぁ」といった声は各方面で聞こえて来ます。そんな人たちにこそ、早稲田大学時代の彼の功績も改めて見直す機会にしていただければ、と思う次第です。
斎藤佑樹、ついに引退。
プロ11年で1軍88試合に登板し、15勝26敗、防御率4.34。期待の大卒ドラフト1位選手であったことを思うと、物足りなさが残る数字であることは否めません。ただ、「野球人・斎藤佑樹」としての足跡は、プロ11年だけで語るわけにはいかない厚みと濃厚さがあります。
2006年夏の甲子園では、試合を重ねるたびに球速が上がり、比例するようにファンのボルテージもアップ。決勝では田中将大を擁する駒大苫小牧との引き分け再試合という伝説の戦いを制し、名門・早稲田実業に初優勝の栄冠をもたらしました。
100年以上の歴史と人気を誇る高校野球では、何年かに1度、時代を象徴する「選手」と「試合」が生まれ、人気も再燃。2006年の斎藤佑樹もそんな「甲子園スター」の代表格として存在したことは間違いありません。
実際、あの決勝戦を現地で観戦し、その後の野球人生に大きな影響を受けた人物がいます。日本ハムの後輩であり、早稲田実業高の後輩でもある清宮幸太郎です。
清宮の父と言えば、ラグビー界のレジェンド・清宮克幸氏。幸太郎少年もそんな父の影響で、幼少期からラグビーに熱中していたと言います。にもかかわらず、「野球で生きて行く」と決めたのは、小学1年生のとき、甲子園決勝で「WASEDA」のユニフォーム姿で奮闘する斎藤佑樹の姿を生で目撃したからでした。
『野球を始めるきっかけは斎藤佑樹さん。僕は小1で、決勝の再試合のときは(甲子園の)アルプスで応援しました』
~『時事ドットコム』2015年4月9日配信 清宮幸太郎 写真特集 より(高校時代の清宮幸太郎コメント)
引退発表から2日後の10月3日、斎藤はファームでラスト登板。ケガに苦しんだ斎藤が、プロで最も汗を流したファイターズ2軍の本拠地・鎌ケ谷スタジアムでした。投球前に涙が止まらず、1度プレートを外す場面もありましたが、DeNAの乙坂に対して132キロのストレートで空振り三振を奪って有終の美を飾りました。このとき、投球前に声をかけ、そして投球後にハグを交わした相手こそ、一塁を守っていた清宮だったのです。
斎藤佑樹を語る上で、やはり「WASEDA」を外すことはできません。そして、今回の引退報道においてあまり語られていないこと、それこそが早稲田大学時代の斎藤佑樹の偉業です。野球人・斎藤佑樹を語る上で、実は甲子園での熱投よりも、そしてプロでの11年よりも、早稲田大学での4年間で残した「数字」と「実績」こそ、球史に輝く偉大なものなのです。
入学直後の東京六大学野球春季リーグでいきなりリーグ最多の4勝を挙げ、1年春の投手では史上初となるベストナインに選出。さらに、その後の大学選手権でも準決勝、決勝で2勝を挙げるなど、早稲田大の33年ぶり日本一に貢献。大会史上初となる1年生でのMVPに選ばれたのです。前年夏の甲子園優勝投手がその翌年、大学1年で大学選手権の優勝投手になること自体、史上初の快挙でした。
その後も大学時代を通してコンスタントに好成績を収め、4年間で61試合に登板して31勝15敗。323奪三振、防御率1.77という見事な成績を残しています。この「30勝&300奪三振」こそ、もっと語られてしかるべき偉業です。
プロ野球の世界に数多くの名投手を輩出して来た東京六大学で、通算30勝以上はこれまで22人、通算300奪三振以上は16人。ただ、両方達成できたのは、秋山登(明治大→大洋)、江川卓(法政大→巨人)、織田淳哉(早稲田大→巨人)、三澤興一(早稲田大→巨人)、加藤幹典(慶應義塾大→ヤクルト)の5人だけ。斎藤は史上6人目の快挙でした。その後、野村祐輔(明治大→広島)も達成しています。
そんな「早稲田大学の斎藤佑樹」に刺激を受けたひとりが、佛教大学のエースだった大野雄大(中日)です。今回の斎藤引退に際して、こんなコメントを残しています。
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「1988年世代を引っ張ってくれた、盛り上げてくれた第一人者ですよね。早稲田実業の時の田中将大投手(楽天)との投げ合いが一気に88年世代を有名にしてくれましたし、すごかったですね」
「大学時代に全国大会で佑ちゃんと投げ合いたいというのを目標の一つに挙げていたんですよ。絶対に勝って、そこで名前を挙げてやろうと思っていましたね」
~『中日スポーツ』2021年10月1日配信記事 より(大野雄大のコメント)
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また、「早稲田の斎藤」が残した功績は、野球の数字だけではありません。彼の知名度・人気ぶりで、日本テレビがリーグ戦の動画無料配信をスタート。ラジオでもニッポン放送が斎藤の登板試合を何度も実況中継しました。
最近でこそ、各大学リーグのネット中継や動画配信は一般的になりましたが、斎藤の登場以前はNHKが注目度の高い早慶戦のみを放送するだけ。普段のリーグ戦の視聴機会が増えたのは、紛れもなく「早稲田の斎藤」のおかげです。
ここ10年は地方大学リーグからも続々と好選手がプロの門を叩いていますが、もともと注目度の高い東京六大学を映像でカバーできるようになったことで、スカウトが地方大学もチェックできるようになった、という見方もできるはず。
今回の引退の報を受け、改めて「高校から即プロに入っていれば違ったのかなぁ」といった声は各方面で聞こえて来ます。そんな人たちにこそ、早稲田大学時代の彼の功績も改めて見直す機会にしていただければ、と思う次第です。