話題のアスリートの隠された物語を探る「スポーツアナザーストーリー」。今回は、今季限りでの引退を表明したプロ野球・阪神タイガース、糸井嘉男にまつわるエピソードを紹介する。
ついに「超人」が19年間のプロ野球生活に別れを告げる。
9月13日に引退表明をした阪神タイガース、糸井嘉男。9月21日、甲子園球場での広島カープ戦で引退セレモニーが開催される。何度も記者から笑いが漏れた引退会見同様、糸井が何を語ってくれるのか、期待は大きい。
その引退会見でのこと。記者から「19年間を率直に」と質問され、次のように答える場面があった。
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野手転向の選択こそがプロ野球選手の土台、と語った糸井。同様に、「いちばん誇れる記録は?」と質問されたときも、糸井から出た言葉は「記録」ではなく、野手転向についてだった。
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超人・糸井の19年間のプロ野球人生において、いかにこの野手転向が大きな出来事だったか。その証左と言える。
2004年、近畿大学から「投手」として日本ハムに入団。自由獲得枠での入団とあって当然大きな期待を集めていたが、最初の2年で1軍登板はゼロ。2軍でも2年間で8勝9敗3セーブ、防御率4点台。迎えた3年目の2006年春、ついに球団から野手転向を打診された。
もちろん、糸井の肉体的資質に期待してのコンバート。それでも、その資質に技術が噛み合わなければプロで通用するはずもない。さらに、大卒の糸井には残された時間も少ない。そんな難題だらけのコンバートに際し、専任コーチとして指導に当たってくれた人物がいる。当時まだ37歳、コーチに就任したばかりの大村巌だ。日本ハムGM(当時)の高田繁と大村コーチとの間では、こんなやりとりがあったという。
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まだ何の実績もない新米コーチだった大村は、糸井を何とかしなければ自分自身もクビになる、と覚悟を決めたのだ。
もっとも、「超人」以外に「宇宙人」のニックネームも持つ糸井。その独特な感性、さらに追い詰められた状況での精神的な浮き沈みもあり、指導にあたってはコミュニケーションがままならない壁にぶち当たったという。
そこで大村が参考にした本と内容が実にユニーク。書店でたまたま手に取ったペットの飼い方についての実用書、そこに書かれてあった「決して犬を怒ってはいけない、とにかく褒めるのがいちばんだ」という記述がヒントになったのだ。
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この発想の転換をきっかけに、厳しいトレーニングにも前向きに取り組めるようになった糸井と大村。朝7時ごろから夜9時過ぎまで、1日も休まず続けられたまさに壮絶な特訓によって、驚異的な急成長を遂げた。高田GMの希望した「1ヵ月」は流石に間に合わなかったが、5ヵ月後の2006年9月、2軍で月間打率.397の好成績を叩き出し、イースタン・リーグ月間MVPを受賞。さらに1年後の翌2007年9月10日、1軍でプロ初ヒットを記録したのだ。
その後も研鑽を重ねた糸井は、2009年にレギュラーの座を獲得。以降、ベストナイン5回、ゴールデン・グラブ賞7回を受賞。タイトルも首位打者と盗塁王を1度ずつ、最高出塁率は3度も獲得。オリックスを経て、2017年に阪神に移籍したあとも主力としてチームを牽引するなど、球史に名を残す選手へと飛躍を遂げたのだ。
ちなみに、大村コーチは、猛練習に励んでいた当時、糸井のモチベーションを上げるためにこんな発破をかけていたという。
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2022年9月21日、糸井嘉男の最後の勇姿を見守るべく、まさに何万人というファンが甲子園球場につめかけるはずだ。
ついに「超人」が19年間のプロ野球生活に別れを告げる。
9月13日に引退表明をした阪神タイガース、糸井嘉男。9月21日、甲子園球場での広島カープ戦で引退セレモニーが開催される。何度も記者から笑いが漏れた引退会見同様、糸井が何を語ってくれるのか、期待は大きい。
その引退会見でのこと。記者から「19年間を率直に」と質問され、次のように答える場面があった。
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『やっぱり長いようで短かったなと。入団していろいろありました。僕の中ではやっぱり野手に転向という選択したあの出来事が、僕のプロ野球選手の土台でしたし、あのとき必死にやっていた練習というのが、やっぱり土台かな、19年できたのかなと僕の中で思っています』
~『デイリースポーツonline』2022年9月13日配信記事 より
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野手転向の選択こそがプロ野球選手の土台、と語った糸井。同様に、「いちばん誇れる記録は?」と質問されたときも、糸井から出た言葉は「記録」ではなく、野手転向についてだった。
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『記録ですか?そうですね…首位打者とか、盗塁王とか記録、タイトルを獲らせていただきましたけど、誇れるとなると、記録ではないんですけど、やっぱりピッチャーから野手になると決断した時からの出来事というのは、アスリートとして、選手として誇れるかなと思います』
~『デイリースポーツonline』2022年9月13日配信記事 より
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超人・糸井の19年間のプロ野球人生において、いかにこの野手転向が大きな出来事だったか。その証左と言える。
2004年、近畿大学から「投手」として日本ハムに入団。自由獲得枠での入団とあって当然大きな期待を集めていたが、最初の2年で1軍登板はゼロ。2軍でも2年間で8勝9敗3セーブ、防御率4点台。迎えた3年目の2006年春、ついに球団から野手転向を打診された。
もちろん、糸井の肉体的資質に期待してのコンバート。それでも、その資質に技術が噛み合わなければプロで通用するはずもない。さらに、大卒の糸井には残された時間も少ない。そんな難題だらけのコンバートに際し、専任コーチとして指導に当たってくれた人物がいる。当時まだ37歳、コーチに就任したばかりの大村巌だ。日本ハムGM(当時)の高田繁と大村コーチとの間では、こんなやりとりがあったという。
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「頼むぞ。1カ月で何とかしてくれ。1カ月で試合に出られるようにな」
1カ月? 無茶だ、と大村は思った。
「いくら何でも、無理だと思いますけどね。ふつう、3年はかかりますよ」
「いや、3年も待つわけにはいかない。ダメだったら、糸井をクビにする」
~『プロ野球コンバート論』(赤坂英一著)より
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まだ何の実績もない新米コーチだった大村は、糸井を何とかしなければ自分自身もクビになる、と覚悟を決めたのだ。
もっとも、「超人」以外に「宇宙人」のニックネームも持つ糸井。その独特な感性、さらに追い詰められた状況での精神的な浮き沈みもあり、指導にあたってはコミュニケーションがままならない壁にぶち当たったという。
そこで大村が参考にした本と内容が実にユニーク。書店でたまたま手に取ったペットの飼い方についての実用書、そこに書かれてあった「決して犬を怒ってはいけない、とにかく褒めるのがいちばんだ」という記述がヒントになったのだ。
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『言葉は悪いけれど、調教師になったつもりで糸井を指導すればいいんだと思いました。もちろん、糸井は犬じゃなくて人間ですけどね、これからはトラかライオンに芸を仕込むような気になって教えていこう。そのほうがきっとうまくいく。そう考えたんです』
~『プロ野球コンバート論』(赤坂英一著)より、大村巌の言葉
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この発想の転換をきっかけに、厳しいトレーニングにも前向きに取り組めるようになった糸井と大村。朝7時ごろから夜9時過ぎまで、1日も休まず続けられたまさに壮絶な特訓によって、驚異的な急成長を遂げた。高田GMの希望した「1ヵ月」は流石に間に合わなかったが、5ヵ月後の2006年9月、2軍で月間打率.397の好成績を叩き出し、イースタン・リーグ月間MVPを受賞。さらに1年後の翌2007年9月10日、1軍でプロ初ヒットを記録したのだ。
その後も研鑽を重ねた糸井は、2009年にレギュラーの座を獲得。以降、ベストナイン5回、ゴールデン・グラブ賞7回を受賞。タイトルも首位打者と盗塁王を1度ずつ、最高出塁率は3度も獲得。オリックスを経て、2017年に阪神に移籍したあとも主力としてチームを牽引するなど、球史に名を残す選手へと飛躍を遂げたのだ。
ちなみに、大村コーチは、猛練習に励んでいた当時、糸井のモチベーションを上げるためにこんな発破をかけていたという。
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『いま、この練習場にいるのはおれとおまえだけだ。ほかには誰もいない。でも、おまえが素晴らしいバッターになれば、マスコミが何百人、ファンが何万人とおまえを見に来るようになる』
~『プロ野球コンバート論』(赤坂英一著)より
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2022年9月21日、糸井嘉男の最後の勇姿を見守るべく、まさに何万人というファンが甲子園球場につめかけるはずだ。