「この度私内川聖一は22年間お世話になりました、日本プロ野球の選手として引退を決断しました。横浜ベイスターズで10年、福岡ソフトバンクホークスで10年、東京ヤクルトスワローズで2年。プロ野球という世界に身を置かせていただくことが出来て、22年間本当に長い時間、プロという世界で野球を出来た事を幸せに思いますし、ありがたい時間だったなという風に思っています。本当にありがとうございました」。
ヤクルトの内川聖一が28日、今季限りでNPBでの現役引退を表明した。現役引退を決断した経緯について内川は「プロ野球選手としては、僕が入団した頃に先輩がたに教えて頂いたのは、プロ野球選手というのは必要とされないとプレーが出来ないと。なおかつ自分がいくらやりたいと言ってもやる場所がないと成立しない世界だと教わって来ましたので、ここ何年間はずっと、そろそろかなという事を考えながら、毎年契約を更新して頂くたびにもう一年出来るという気持ちでやらせて頂きました。ですが、自分の方でもそろそろNPBという第一線では厳しいなと感じましたし、自分はヒットを打つ為に一生懸命バッティングを作って来ましたが、ここ最近の野球界のバッティングは基本的にホームランを打つためのバッティングをしながらヒットを打つというふうに段々変化して来ていると思いましたので、その涙の変化に対応しきれなくなったというのが正直ありました」と説明した。
内川は00年ドラフト1位で横浜に入団。04年に17本塁打、06年に124試合に出場したが、不動のレギュラーというわけではなかった。08年に右打者としてはセ・リーグ記録を更新する打率.378で首位打者のタイトルを獲得。当時について「こんなにバッティングで思い通りに行くことがあるんだなと。信じられなかったですね」と振り返る。
「前の年までレギュラーを取ってなかったですし、規定打席に乗ったこともなかった人間ですから。まさか.378ていう打率なんて想定もしていなかった。今思い出すのは、毎試合打席に立ったときに球場のバックスクリーンに打率が出るのを見て、自分の数字じゃないような感覚で打席に入っていたのは覚えています。わぁ、すげーな、と思いながら」。
翌09年にはWBC日本代表に選出され、「無我夢中でしたね。色んな立ち位置で、WBCも3回出させて頂きましたが、1回目は野手の最年少で出させて貰って先輩方についていくのが一生懸命の中で活躍させて貰いました」と、世界一に貢献。
その後13年、17年のWBCにも出場した。「2回目の大会は、自分が中心として頑張らなければいけないという思いの中で、臨ませてもらいました。(2013年準決勝のプエルトリコ戦)サンフランシスコでのダブルスチール失敗は一生忘れられないプレーになりましたし、過去2大会世界一になった先輩方が繋いできてくれたものを自分が止めてしまったという思いを強く持った瞬間でした」と悔しい思い出を振り返った。
「3回目はレギュラーではなかったですが、良い所で代打として使って頂きましたし、色んな立ち位置の中で日本代表の試合に関わらせて貰いました」と話した。
そして、一番忘れられないのは「子供の頃から色々な場所で聞いて来た君が代を日本を離れて聞いた時に、自分は日本人なんだなと感じましたし、日の丸を背負うというのはこういう事なんだと感じた事を覚えています」と語った。
首位打者2回(08年、11年)、最高出塁率1回(08年)、最多安打2回(08年、12年)に輝くなど、22年9月27日時点で現役通算2185安打を放った“安打製造機”は静かにバットを置いた。
(取材=ニッポン放送アナウンサー・大泉健斗)
ヤクルトの内川聖一が28日、今季限りでNPBでの現役引退を表明した。現役引退を決断した経緯について内川は「プロ野球選手としては、僕が入団した頃に先輩がたに教えて頂いたのは、プロ野球選手というのは必要とされないとプレーが出来ないと。なおかつ自分がいくらやりたいと言ってもやる場所がないと成立しない世界だと教わって来ましたので、ここ何年間はずっと、そろそろかなという事を考えながら、毎年契約を更新して頂くたびにもう一年出来るという気持ちでやらせて頂きました。ですが、自分の方でもそろそろNPBという第一線では厳しいなと感じましたし、自分はヒットを打つ為に一生懸命バッティングを作って来ましたが、ここ最近の野球界のバッティングは基本的にホームランを打つためのバッティングをしながらヒットを打つというふうに段々変化して来ていると思いましたので、その涙の変化に対応しきれなくなったというのが正直ありました」と説明した。
プロ8年目に首位打者
「前の年までレギュラーを取ってなかったですし、規定打席に乗ったこともなかった人間ですから。まさか.378ていう打率なんて想定もしていなかった。今思い出すのは、毎試合打席に立ったときに球場のバックスクリーンに打率が出るのを見て、自分の数字じゃないような感覚で打席に入っていたのは覚えています。わぁ、すげーな、と思いながら」。
WBCでの活躍
翌09年にはWBC日本代表に選出され、「無我夢中でしたね。色んな立ち位置で、WBCも3回出させて頂きましたが、1回目は野手の最年少で出させて貰って先輩方についていくのが一生懸命の中で活躍させて貰いました」と、世界一に貢献。
その後13年、17年のWBCにも出場した。「2回目の大会は、自分が中心として頑張らなければいけないという思いの中で、臨ませてもらいました。(2013年準決勝のプエルトリコ戦)サンフランシスコでのダブルスチール失敗は一生忘れられないプレーになりましたし、過去2大会世界一になった先輩方が繋いできてくれたものを自分が止めてしまったという思いを強く持った瞬間でした」と悔しい思い出を振り返った。
「3回目はレギュラーではなかったですが、良い所で代打として使って頂きましたし、色んな立ち位置の中で日本代表の試合に関わらせて貰いました」と話した。
そして、一番忘れられないのは「子供の頃から色々な場所で聞いて来た君が代を日本を離れて聞いた時に、自分は日本人なんだなと感じましたし、日の丸を背負うというのはこういう事なんだと感じた事を覚えています」と語った。
首位打者2回(08年、11年)、最高出塁率1回(08年)、最多安打2回(08年、12年)に輝くなど、22年9月27日時点で現役通算2185安打を放った“安打製造機”は静かにバットを置いた。
(取材=ニッポン放送アナウンサー・大泉健斗)