話題のアスリートの隠された物語を探る「スポーツアナザーストーリー」。今回は、1月24日に訃報が伝えられたパ・リーグを代表するスラッガー・門田博光さんのエピソードを紹介する。
昨年(2022年)末の村田兆治さんに続き、往年のパ・リーグを代表する選手がまたこの世を去りました。南海・オリックス・ダイエーで活躍。王貞治さん、野村克也さんに次ぐNPB歴代3位の567本塁打を放った門田博光さんです。報道によると、1月24日の午前中、門田さん宅を訪れた警察官によって倒れているところを発見され、その場で死亡が確認されたとのこと。74歳でした。
2016年から人工透析を受けるなど、近年は体調が思わしくなかった門田さん。そんななかでも、2019年には学生野球資格回復の特例研修(野球殿堂入りしたプロ経験者が対象)に参加。高校・大学の指導資格を回復し、野球への情熱は失っていませんでした。
1つ残念なのは、あれだけの実績を残したスラッガーが、引退後、プロ球界でコーチを務める機会に恵まれなかったことです。現役時代は我が道を行く性格で、野球にプラスにならないことは一切しなかった人でしたから、世渡り下手なところはありました。しかし門田さん自身は、自分の技術を後進に伝えたかったはず。指導資格回復はその証拠で、直系の弟子をプロ球界に残せなかったのは、さぞ心残りだったでしょう。
門田さんが現役を引退したのは1992年なので、もう31年も前になります。「通算本塁打数・歴代3位」と聞いて「え、門田ってそんなに打ってたの?」という方もいらっしゃるでしょう。パ・リーグひと筋だったこともあり、その功績がちゃんと伝わっていない感がありますので、その偉大さが伝わるエピソードをいくつかご紹介しましょう。
門田さんのプロ野球人生を語る上で切っても切り離せないのが、南海ホークス時代に「監督×選手」の関係だった野村克也さんです。門田さんのプロ1年目は1970年。この年は、野村さんが選手兼任で監督業を始めた年でもありました。
門田さんの大振りを諫め「ヒットの延長がホームランなんや」と説いた野村さん。普通、野村さんほどの大打者にそう言われたら「そういうものなのか」と聞き入れるところですが、「いや、でも監督だって打席に立ったらホームランを狙っているでしょう?」と言い返して怒らせた話は有名です。
言うことを聞かないなら使わないぞ……となるところ、門田さんの才能を買っていた野村兼任監督は、さすが懐が広かった。やがて門田さんを「4番・野村」の前を打つ3番打者に抜擢します。
ここでも「ホームランばかり狙わず、塁に出ることを考えろ」とクギを刺す野村さんに「オレがホームランを打ったら自分の打点が減るから、そんなことを言うんでしょ」と憎まれ口を叩いた門田さん。しかし、いくらムッとしても、野村さんは門田さんをクリーンアップから外しませんでした。門田さんは不断の努力を重ね、やるべきことをやり、結果を出していたからです。
思うに、野村さんにとって当時の門田さんは「気難しく扱いにくい選手をどうやる気にさせるか」を考える上で、格好の教材だったのではないでしょうか。生前よく「江夏(豊)、江本(孟紀)、門田は“南海の3悪人”や」と語っていた野村さん。もちろんこれは愛情を込めた表現で、自分の野球観をしっかり持って、指揮官にも言い返してくる門田さんのような選手が「監督・野村克也」を鍛えていったのです。
ところで、門田さんの年度別成績を見ていただければわかりますが、野村監督時代(1970年~1977年)の門田さんは、決して「ホームランバッター」ではありませんでした。この間のシーズン本塁打は、打点王になった2年目(1971年)の31本が最高で、年間10本~20本台。当時は俊足で二塁打も多く、8シーズンで5回も打率3割台を記録しています。どちらかというと「確実性があり、一発もある中距離ヒッター」のイメージでした。
転機になったのは、1979年の春季キャンプでアキレス腱を断裂したことです。野球選手にとっては致命的なケガで、当時は復活した例も少なかったのですが、不屈の闘志で驚異的な回復力を見せた門田さん。「これからは、足に負担が掛からない本塁打を狙おう」と発想を変え、翌1980年からホームラン打者への転換を目指しました。
ただ言うは易しで、入団間もない若手ならともかく、1980年の時点で門田さんはすでに32歳。プロ11年目の選手でした。30歳を過ぎてから、打撃スタイルを根本的に変える、しかもパワーヒッターへの転向は並大抵のことではありません。
そもそも、門田さんの身長は170センチと、野球選手としてはかなり小柄な方でした。体格のハンディを打球の威力でカバーしようと、あえて重さ1キロの超重量バットを使い、フルスイングしていた門田さん。このバットを振り抜くために、想像を超える猛トレーニングがあったことは言うまでもありません。一見、小肥りの体型に見えますが、ユニフォームを脱げば「筋肉の塊だった」と当時のチームメイトが証言しています。
自分にハッパをかけるため、門田さんは背番号を10年間慣れ親しんだ「27」から「44」に変更。外国人の長距離砲がよくつける番号であり「本塁打をシーズン44本打つ」という覚悟を示したものでもありました。
重いバットを振って振って振り抜いた門田さんは、この年41本塁打を放ち、初の40本台を達成。翌1981年には、目標の背番号と同じ44本塁打を放って、初のホームラン王を獲得します。中距離打者として実績を残した選手が、30代から長距離砲への転換を成功させたのは非常に稀な例であり、もっと讃えられるべき偉業だと思います。
もう1つ、忘れてはならない偉業は、40代になってからも本塁打を量産したことです。トレーニング方法が発達し、選手寿命が延びたいまでこそ、40代の選手は珍しくなくなりましたが、門田さんが40歳を迎えた1988年はまだ昭和。40代で目覚ましい数字を残す選手は稀でした。
その40歳のシーズンに、門田さんは何と44本塁打、125打点をマークし、2冠王に輝いたのです。さらに全試合出場(当時は130試合制)のおまけ付きでした。打率もリーグ6位の3割1分1厘を記録。この年の首位打者はロッテ・高沢秀昭さんの3割2分7厘でしたので、もう少しヒットが出ていれば「40代3冠王」の大偉業も夢ではなかったのです。
この1988年、南海は5位だったにもかかわらず、門田さんはその功績を讃えられ、史上最年長でパ・リーグMVPを受賞。「不惑の大砲」は世間の流行語にもなりました。ただ、昭和最後のシーズンとなったこの年、親会社の南海電鉄はダイエーへの球団売却を発表し、ホークスは福岡へ移転することに。
門田さんは子どもの学校の関係もあり、関西に残ることを希望。1989年からは阪急が身売りして誕生した新球団・オリックスへ移籍し、ブーマーらと「ブルーサンダー打線」を形成しました。
オリックスでの2シーズン(1989年・1990年)で本塁打33本・31本を放ち、1991年からはダイエーに移籍。古巣のホークスで現役生活を終えた門田さん。最後の2シーズン(1991年・1992年)は18本・7本と本数こそ減りましたが、当時門田さんは43歳~44歳。それでこの本数は驚異的という他ありません。
ちなみに、門田さんが40代で放った本塁打は133本。「40歳の誕生日以降に放った本塁打数」のデータを見ると、3ケタの本塁打を放ったのは門田さんだけで、2位は金本知憲さん(広島・阪神)の80本ですから、いかに突出した数字かおわかりいただけるでしょう。
またオリックス時代の1990年には、42歳にして「2試合連続サヨナラ本塁打」というパ・リーグ史上初の快挙も達成しています。1本目は満塁サヨナラ弾でした。記録だけでなく、記憶にも残るプレーヤーだった門田さん。
私が大好きなエピソードは、これも1990年の話ですが、この年、近鉄の黄金ルーキーだった野茂英雄さんとの対決です。「野茂から最初にホームランを打つ!」と宣言し、みごと公約を果たしたときは「こんなカッコいい42歳がいるんだ」と感動したのを覚えています。
また、門田さんの現役最後の打席、ピッチャーは野茂さんでした。野茂さんは全球ストレートで勝負。門田さんはフルスイングで立ち向かい、3球三振を喫しました。最後に花を持たせてもらうことを拒否。野茂さんにあくまで真剣勝負を望んだのは、実に門田さんらしい幕の引き方でした。
プレーで魅せるパ・リーグの野球を体現していたあなたのことは、決して忘れません。門田さん、長い間ありがとうございました。ご冥福を祈ります。
昨年(2022年)末の村田兆治さんに続き、往年のパ・リーグを代表する選手がまたこの世を去りました。南海・オリックス・ダイエーで活躍。王貞治さん、野村克也さんに次ぐNPB歴代3位の567本塁打を放った門田博光さんです。報道によると、1月24日の午前中、門田さん宅を訪れた警察官によって倒れているところを発見され、その場で死亡が確認されたとのこと。74歳でした。
2016年から人工透析を受けるなど、近年は体調が思わしくなかった門田さん。そんななかでも、2019年には学生野球資格回復の特例研修(野球殿堂入りしたプロ経験者が対象)に参加。高校・大学の指導資格を回復し、野球への情熱は失っていませんでした。
1つ残念なのは、あれだけの実績を残したスラッガーが、引退後、プロ球界でコーチを務める機会に恵まれなかったことです。現役時代は我が道を行く性格で、野球にプラスにならないことは一切しなかった人でしたから、世渡り下手なところはありました。しかし門田さん自身は、自分の技術を後進に伝えたかったはず。指導資格回復はその証拠で、直系の弟子をプロ球界に残せなかったのは、さぞ心残りだったでしょう。
門田さんが現役を引退したのは1992年なので、もう31年も前になります。「通算本塁打数・歴代3位」と聞いて「え、門田ってそんなに打ってたの?」という方もいらっしゃるでしょう。パ・リーグひと筋だったこともあり、その功績がちゃんと伝わっていない感がありますので、その偉大さが伝わるエピソードをいくつかご紹介しましょう。
門田さんのプロ野球人生を語る上で切っても切り離せないのが、南海ホークス時代に「監督×選手」の関係だった野村克也さんです。門田さんのプロ1年目は1970年。この年は、野村さんが選手兼任で監督業を始めた年でもありました。
門田さんの大振りを諫め「ヒットの延長がホームランなんや」と説いた野村さん。普通、野村さんほどの大打者にそう言われたら「そういうものなのか」と聞き入れるところですが、「いや、でも監督だって打席に立ったらホームランを狙っているでしょう?」と言い返して怒らせた話は有名です。
言うことを聞かないなら使わないぞ……となるところ、門田さんの才能を買っていた野村兼任監督は、さすが懐が広かった。やがて門田さんを「4番・野村」の前を打つ3番打者に抜擢します。
ここでも「ホームランばかり狙わず、塁に出ることを考えろ」とクギを刺す野村さんに「オレがホームランを打ったら自分の打点が減るから、そんなことを言うんでしょ」と憎まれ口を叩いた門田さん。しかし、いくらムッとしても、野村さんは門田さんをクリーンアップから外しませんでした。門田さんは不断の努力を重ね、やるべきことをやり、結果を出していたからです。
思うに、野村さんにとって当時の門田さんは「気難しく扱いにくい選手をどうやる気にさせるか」を考える上で、格好の教材だったのではないでしょうか。生前よく「江夏(豊)、江本(孟紀)、門田は“南海の3悪人”や」と語っていた野村さん。もちろんこれは愛情を込めた表現で、自分の野球観をしっかり持って、指揮官にも言い返してくる門田さんのような選手が「監督・野村克也」を鍛えていったのです。
ところで、門田さんの年度別成績を見ていただければわかりますが、野村監督時代(1970年~1977年)の門田さんは、決して「ホームランバッター」ではありませんでした。この間のシーズン本塁打は、打点王になった2年目(1971年)の31本が最高で、年間10本~20本台。当時は俊足で二塁打も多く、8シーズンで5回も打率3割台を記録しています。どちらかというと「確実性があり、一発もある中距離ヒッター」のイメージでした。
転機になったのは、1979年の春季キャンプでアキレス腱を断裂したことです。野球選手にとっては致命的なケガで、当時は復活した例も少なかったのですが、不屈の闘志で驚異的な回復力を見せた門田さん。「これからは、足に負担が掛からない本塁打を狙おう」と発想を変え、翌1980年からホームラン打者への転換を目指しました。
ただ言うは易しで、入団間もない若手ならともかく、1980年の時点で門田さんはすでに32歳。プロ11年目の選手でした。30歳を過ぎてから、打撃スタイルを根本的に変える、しかもパワーヒッターへの転向は並大抵のことではありません。
そもそも、門田さんの身長は170センチと、野球選手としてはかなり小柄な方でした。体格のハンディを打球の威力でカバーしようと、あえて重さ1キロの超重量バットを使い、フルスイングしていた門田さん。このバットを振り抜くために、想像を超える猛トレーニングがあったことは言うまでもありません。一見、小肥りの体型に見えますが、ユニフォームを脱げば「筋肉の塊だった」と当時のチームメイトが証言しています。
自分にハッパをかけるため、門田さんは背番号を10年間慣れ親しんだ「27」から「44」に変更。外国人の長距離砲がよくつける番号であり「本塁打をシーズン44本打つ」という覚悟を示したものでもありました。
重いバットを振って振って振り抜いた門田さんは、この年41本塁打を放ち、初の40本台を達成。翌1981年には、目標の背番号と同じ44本塁打を放って、初のホームラン王を獲得します。中距離打者として実績を残した選手が、30代から長距離砲への転換を成功させたのは非常に稀な例であり、もっと讃えられるべき偉業だと思います。
もう1つ、忘れてはならない偉業は、40代になってからも本塁打を量産したことです。トレーニング方法が発達し、選手寿命が延びたいまでこそ、40代の選手は珍しくなくなりましたが、門田さんが40歳を迎えた1988年はまだ昭和。40代で目覚ましい数字を残す選手は稀でした。
その40歳のシーズンに、門田さんは何と44本塁打、125打点をマークし、2冠王に輝いたのです。さらに全試合出場(当時は130試合制)のおまけ付きでした。打率もリーグ6位の3割1分1厘を記録。この年の首位打者はロッテ・高沢秀昭さんの3割2分7厘でしたので、もう少しヒットが出ていれば「40代3冠王」の大偉業も夢ではなかったのです。
この1988年、南海は5位だったにもかかわらず、門田さんはその功績を讃えられ、史上最年長でパ・リーグMVPを受賞。「不惑の大砲」は世間の流行語にもなりました。ただ、昭和最後のシーズンとなったこの年、親会社の南海電鉄はダイエーへの球団売却を発表し、ホークスは福岡へ移転することに。
門田さんは子どもの学校の関係もあり、関西に残ることを希望。1989年からは阪急が身売りして誕生した新球団・オリックスへ移籍し、ブーマーらと「ブルーサンダー打線」を形成しました。
オリックスでの2シーズン(1989年・1990年)で本塁打33本・31本を放ち、1991年からはダイエーに移籍。古巣のホークスで現役生活を終えた門田さん。最後の2シーズン(1991年・1992年)は18本・7本と本数こそ減りましたが、当時門田さんは43歳~44歳。それでこの本数は驚異的という他ありません。
ちなみに、門田さんが40代で放った本塁打は133本。「40歳の誕生日以降に放った本塁打数」のデータを見ると、3ケタの本塁打を放ったのは門田さんだけで、2位は金本知憲さん(広島・阪神)の80本ですから、いかに突出した数字かおわかりいただけるでしょう。
またオリックス時代の1990年には、42歳にして「2試合連続サヨナラ本塁打」というパ・リーグ史上初の快挙も達成しています。1本目は満塁サヨナラ弾でした。記録だけでなく、記憶にも残るプレーヤーだった門田さん。
私が大好きなエピソードは、これも1990年の話ですが、この年、近鉄の黄金ルーキーだった野茂英雄さんとの対決です。「野茂から最初にホームランを打つ!」と宣言し、みごと公約を果たしたときは「こんなカッコいい42歳がいるんだ」と感動したのを覚えています。
また、門田さんの現役最後の打席、ピッチャーは野茂さんでした。野茂さんは全球ストレートで勝負。門田さんはフルスイングで立ち向かい、3球三振を喫しました。最後に花を持たせてもらうことを拒否。野茂さんにあくまで真剣勝負を望んだのは、実に門田さんらしい幕の引き方でした。
プレーで魅せるパ・リーグの野球を体現していたあなたのことは、決して忘れません。門田さん、長い間ありがとうございました。ご冥福を祈ります。