8連勝で2位に浮上した阪神 スタメンマスクはルーキー!
7月1日のヤクルト戦から11日の巨人戦まで、雨天中止を2試合挟んで8連勝。阪神が広島を抜いて一気に2位へと浮上した。そのすべてで先発マスクを任されていたのが、福岡大学卒のルーキー・梅野隆太郎だ。8連勝中、放ったヒットは8本。そのうちホームラン4本(2打席連続含む)と華々しい活躍を見せた。
1年目から活躍するのは難しいとされるキャッチャーで、キャンプから1軍に帯同。開幕戦スタメンはならなかったものの、途中出場を果たしたのは、球団の期待の表れだ。7月16日現在、チーム内のキャッチャーではトップとなる出場試合数を重ね、期待にしっかり応えている。
梅野隆太郎は1991年6月生まれ、福岡県出身。同年代の選手には、菊池雄星(花巻東高→西武1位)、大瀬良大地(長崎日大高→九州共立大→広島1位)らがいる。
中学時代は、硬式のジャパンリーグ「那珂川シャークス」に所属。梅野は19期生で、在籍した頃は各種大会で優勝するなど九州でも屈指の強豪チームとなっていた。中学3年7月に行われたジャパンリーグの一大イベント・嬉野大会でも優勝。梅野は大会MVPに選ばれた。当時の中学野球誌によると、体格は身長167センチ体重60キロ。取材した記者が選ぶ好選手として、「強肩強打で大活躍! 横の動き、声、負けず嫌いな性格もいい」と紹介されている。
中学卒業後は、福岡工大城東高校へ。1学年上に笠原将生(現・巨人)、1学年下に中谷将大(現・阪神)がいた。なお、プロで再びチームメートとなった中谷は高校卒でプロ入りしたため、梅野から見ると「年齢は1歳下だけど、プロでは3年先輩」という関係になる。また、県内の同学年には、河野元貴(九州国際大付→巨人)、小関翔太(東筑紫学園→楽天)がいて、梅野とあわせて「福岡捕手三羽ガラス」と称された。さらに、川原弘之(福岡大大濠→ソフトバンク2位)、榎本葵(九州国際大付→楽天4位)など、この年の福岡県には逸材高校生が多くいた。
その中でも梅野が目立っていたのは、強肩強打に加えてキャプテンシーだった。3年春の九州大会福岡南部予選は、準決勝で左手首を骨折。その後の試合に出場することはできなかったが、ベンチから指示を出し、伝令としてもチームを支えた。毎年5月に行われるNHK旗福岡県選抜高校野球大会では優勝し、当時の野球雑誌には「準決勝で3ラン。決勝では先制の三塁打を放ち、チームを優勝に導いた。キャプテンシーの塊のような選手」と紹介されている。
3年夏前の体格は172センチ75キロ。県大会ベスト8で高校野球を終えた。ドラフト指名を受ける可能性は十分あったが、「下位で入れたとしても、体もできていないし、勝負できない」とプロ志望届を出さず、福岡大学への進学を決めた。
大学1年から感じた全国レベル キャプテンシーと華のある選手に
福岡大では「練習レベルに満足できない時期もあった」というものの、自主練習を欠かすことなく、1年春のリーグ戦から出場。木製バットに苦しみ打率2割台だったが、時間をかけて徐々に対応していった。
春のリーグ戦後に行われる大学選手権には4年連続出場し、秋の明治神宮大会には3、4年時に出場。いずれも2回戦進出が最高成績だが、2学年上の藤岡貴裕(東洋大→ロッテ)と対戦するなど、「全国レベル」を肌で感じてきた。
2年生からは、大学日本代表メンバーに選出。明治大・善波達也監督、亜細亜大・生田勉監督にキャッチングとスローイングのマンツーマン指導を受け、「いいアドバイスをいただけて、よかったです」とコメントしている。4年生になると、大学日本代表キャプテンと4番打者を任され、日米大学野球選手権優勝に貢献した。神宮球場での最終戦ではホームランを放ち、華も実もある選手に成長したのだった。
秋のドラフトでは、大学日本代表で正捕手を争った吉田裕太(立正大)がロッテ2位、嶺井博希(亜細亜大)がDeNA3位。自らの4位という順位に落胆はあったはずだが、ドラフト前は「プロ野球選手というだけじゃ満足できない。1軍で正捕手として出られる球団に入りたい」と語っていた梅野。その言葉が現実になったいま、もうひとつ語っていた「長くプレーすることが目標」も達成してほしい。
目標の一人と掲げた阿部慎之助(巨人)は、宿敵の正捕手だ。その存在に追いつき追い越す日を、タイガースファンは心から待ち望んでいることだろう。強肩強打にキャプテンシーと華のあるキャッチャーは、熱狂的ファンが埋め尽くす甲子園球場を熱くする。
文=平田美穂(ひらた・みほ)