ショウアップナイター

ニッポン放送・煙山光紀アナ「片方のチームに完全に肩入れてして応援の気持ちで実況した試合」、「この試合をきっかけに、最初から入り込めるように」。野球実況者として“転期”となった09年の交流戦

ニッポン放送・煙山光紀アナうんさー

◆ いつでもみんなのプロ野球!実況アナルームのテーマは“今まで一番熱かった試合”

 「田代さんに思い入れがあったのと、ベイスターズが当時どん底の状態だった事。西武が前年リーグ優勝のチームだった事。色々な要素が相まって、プロ野球の実況で初めて片方のチームに完全に肩入れをして、熱く実況した試合だったので、選びました」

 ニッポン放送・煙山光紀アナウンサーは、一番熱かった試合に2009年6月19日の横浜-西武(横浜スタジアム)の交流戦を挙げた。休養になった大矢監督に代わって、当時湘南シーレックスで二軍監督をしていた田代富雄さんが、交流戦から監督代行になった。この試合の前、ベイスターズは7連敗のあと1つ勝ってまた6連敗中だった。一方ライオンズは片岡、栗山、中島宏之、中村剛也といった面々が並ぶ強打のチーム。当時、2年連続最下位のベイスターズと、前年リーグ優勝のライオンズの対戦はベイスターズ先発の藤江が3回までに5失点を喫するものの、0-5の5回に吉村のホームランで反撃の狼煙をあげ、8回にはまたしても吉村が逆転2ランを放ち、1点リードの9回のマウンドには山口俊が上がった。

 「田代さんが2軍監督時代に鍛え上げた2人の活躍が本当に胸アツで、山口が1アウト取るたびに、放送席の机を“よっしゃ!”と叩きながら実況していたのを覚えています。興奮して、“頑張れ!、このまま勝て!”という気持ちで勝利の瞬間まで全力で実況しました。プロ野球でそんな気持ちで実況したのは後にも先にもこの試合だけです」

 煙山アナにとって、この試合は野球実況をやる上で大きな“転期”となった。

 「1994年にニッポン放送に移籍してから14年間サッカーの中継を中心で実況していたんです。野球実況に1シーズン通して本格的に取り組んだのは2008年でした。サッカーは試合前からサポーターが大歓声を上げていて、自然にトップギアで実況できたのが、野球だとプレイボールの時は結構静かですから勝手が違って、うまく入れなかった。無理やりアクセルを踏み込んで喋ったりもしたんですけど、それだと“サッカー中継みたいだ”と言われてしまったり...そういう意味ではこの試合は最初から自然に入り込めた。あまり良いことではないかもしれないんだけど、片方のチームに完全に応援の気持ちがあったのが、当時の僕には良かったのかも知れない。野球実況では初めて周りの方から褒めて頂いたので、当時の手帳に“周りの評価ベスト!”って書いてありました(笑)よほど嬉しかったんだと思います。試合に入り込む感覚が掴めたという意味でも僕にとっては熱かった試合ですね」

◆ 田代富雄さんとの思い出

 煙山アナにとって深い思い入れがある田代さんは、1994年から96年にかけてニッポン放送で解説者を務めていた。

「1回だけ西武球場で実況・解説を組むチャンスがあったんですが、雨で中止になってしまいました(西武球場は当時屋根がなかった)。土砂降りの雨だったんですよ。シャッターを降ろした放送席で雨音を聴きながら、田代さんに色々話して頂いた。野球中継で解説をする話になった時には“(ミスターショウアップナイターと言われた)深澤アナウンサーと組む時は、試されているみたいで緊張するんだよな”とか、飾らず、真っ直ぐに話す方だな」と、その人柄に憧れた。

 田代さんはその後、古巣・横浜で打撃コーチを中心に指導者の道へ。09年に監督代行を務めた後、再び10年から湘南シーレックスの監督に復帰し、同年限りで横浜を退団。煙山アナは、最後の姿を見届けようと、田代二軍監督退団会見に出席した。

「僕と同じような思いの記者の方も多かったのだろうと思います。小さい会議室が人でいっぱいだった。何とも言えない温かい空気の会見でした」

 田代さんはその後、韓国・SK、楽天のコーチなどを務め、再び横浜に帰ってきた。

「今でも顔を見るとホッとする。田代さんが現場で楽しくやっているなと嬉しくなる。ファンからも愛されていて、親か、おじいちゃんおばあちゃんに教えてもらっているのか、小さな子供が“富雄ちゃーん”と声をかけたり。田代さんがチームの歴史を繋いでいるというか、弱かった大洋時代からプレーした人が、いつもそこにいる。歴史の流れの中で田代さんがいてくれるのは安心する。ちょっとほっこりするというか、そんな存在ですね。ご本人にあの時の実況の話はしたことはありませんが、ある意味僕にとっては恩人です。いつか話せる機会があれば良いですね」

(ニッポン放送ショウアップナイター)

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