コラム

繊細かつ激情家、自ら巨人を飛び出した“満塁男”【駒田徳広・最後の1年】

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駒田が右中間に逆転本塁打を放ちバンザイ=東京ドーム

『男たちの挽歌』第16幕:駒田徳広


「負けるってことは考えられませんでしたから。シーズン始めに立てる予算も、必ず巨人が勝つものとして日本シリーズは組み込んでいましたよね」

 DVDマガジン『プロ野球黄金時代Vol.3 昭和球場物語』(ベースボール・マガジン社)収録の後楽園球場編で、元球場支配人の吉井滋さんは「すげぇ強かったからね」と、ジャイアンツのV9時代やその後の歴代名シーンを嬉しそうに振り返っている。

 1974年10月14日、長嶋茂雄の引退セレモニー。77年9月3日、王貞治756号アーチの世界新記録達成。79年4月17日、ロッテとの二軍戦に怪物・江川卓が登板して異例の4万人近い大観衆が集結。81年4月4日、開幕戦にゴールデンルーキー原辰徳が「6番・二塁」でプロデビュー。そんな昭和の後楽園名場面にあの衝撃的なホームランも加えられるだろう。

 83年4月10日、大洋戦においてプロ野球史上初の初打席満塁本塁打というデビューを飾ったのが、当時3年目の20歳・駒田徳広である。

一塁レギュラーの中畑清が試合前練習で故障すると、その代役で先発出場した背番号50は初回の初打席、一死満塁のチャンスで右中間スタンドへいきなり豪快な一発。この年の駒田は12本塁打を放ち、満塁では12打数7安打の打率.583と“満塁男”キャラが一躍有名に。同年に12勝を挙げ新人王に輝いた背番号54の槙原寛己、3打席連続アーチを記録した背番号55の吉村禎章らとともに、ヤングジャイアンツの“50番トリオ”として人気となる。

 その身長191センチの左の大型大砲には王貞治監督も大きな期待をかけ、自身の打撃の師匠でもある荒川博の元へ通わせたほどだった。荒川道場で一本足打法に挑戦する“王二世”と周囲は騒ぎ立てるが、意外に神経質な面もあったジャンボ駒田は打撃に悩み、20代前半の数年間は一軍でもほぼ代打要員とスランプに陥ってしまう。

豪快な満塁弾デビューとその巨体からパワーヒッターと思われがちだが、実際の打撃スタイルは巧みなバットコントロールで率を稼ぐ勝負強い中距離ヒッター(キャリア20年間で20本塁打超えは2度)だった。


繊細な激情家


 ようやく復活の兆しが見えたのは王・巨人が初優勝した87年、「ダウンスイングで上からボールを叩くのではなく、体全体を使ってバットのヘッドの重さを利用して、その遠心力で強く打て」という松原誠打撃コーチの指導が合い、後楽園球場ラストイヤーに駒田は打率.287、15本塁打で外野の一角を奪取。「顔はかわいいコマダ~」ってなんだかよく分からないけどインパクトは凄い応援歌が少年たちの草野球で流行る謎のブームもあった。

 東京ドームが開場し、背番号10に代わった翌88年には、一塁と外野を掛け持ちしながら(桜井商業高時代は投手経験もあり肩は強かった)、自身初の規定打席到達で打率.307と、巨人の主力打者へと定着していく。一方で中堅起用された9月20日の中日戦で守りのミスを連発して途中交代させられた駒田は、それを不服としてベンチの壁をバットで叩くなど派手に暴れて、王監督が「帰れ!」と一喝。そのまま宿舎に戻る騒動を起こしている。

 繊細かつ激情家の打撃職人。近鉄と戦った89年の日本シリーズでは、当時の新記録となる7試合で打率.522(23打数12安打、7戦連続安打を放つ)と、平成最初のシリーズMVPに輝く大活躍。藤田・巨人の3連敗から4連勝という大逆転日本一の立役者になった。

 なお、巨人打線を抑え、「とりあえずフォアボールさえ出せなかったら打たれる気しなかったんで。たいしたことなかったです。もちろんシーズンの方がよっぽどしんどかったですからね。相手も強いし」なんてお立ち台でディスられた因縁の相手・加藤哲郎から、第7戦にリベンジ本塁打を放った駒田は、ベースを回りながらマウンドに向かって「バーカ!」と言い放ってみせた。現代なら大炎上しそうなガチすぎるやり取りである。


首脳陣との衝突と巨人との別れ


 第52代4番打者も経験し、恐怖の7番打者から90年代はクリーンナップの一角を担った。91年は自己最高の打率.314、92年は打率.307、27本塁打で1億円プレーヤーに。長身を生かした一塁守備も評価が高く、89年から3年連続でゴールデングラブ賞を獲得している。

しかし、だ。長嶋監督が復帰した93年、新打撃コーチ中畑清との不仲が度々メディアを騒がすことになる。開幕前にはオープン戦出場を直訴して衝突。シーズン中にも送りバントのサインに対して不満を口にする背番号10は、5月22日にはスタメンを外され、89年から続いていた連続試合出場も「450」でストップしてしまう。

「一生忘れない。悔しいよ」なんつって怒る駒田に、「このままではオフには取り返しがつかないことになる」(「週刊ポスト」93年11月26日号)と、無気力プレーを批判する中畑コーチ。解説者時代は、後輩に「オマエのキャラクターは使えるよ。競馬のCMに出れば全面的にそのまま使えるじゃない」なんて、無神経かつフランクに接していた絶好調男キヨシも、元同僚から上司と部下に変わった距離感に戸惑い空回り。

31歳の主力選手と元生え抜きスターの新米コーチの衝突は恰好のマスコミネタとなり、広島遠征から戻った駒田は駅のキヨスクのスポーツ新聞で、「駒田トレード」の見出しを見つけて愕然としたという。

 行き先はオリックスか、横浜かと加熱する放出話。しかも、この93年オフから導入されるFA制度で中日の落合博満が巨人へ移籍するのは決定的と見られていた。そうなると一塁のポジションが被る自分の居場所がなくなってしまう。

打率.249でシーズンを終えた駒田は、長嶋監督の考えを確認しようと再三面会を求めたが叶わず、10月末に二度の電話があったのみ。ついに秋季キャンプ中に外野をランニング中の指揮官の元に向かい、自身の来季起用法について直談判。するとミスターは「日本シリーズというビッグイベント前にそういう話はするもんじゃない。新聞記者にお前と一緒の写真を撮られたら大変だから向こうへいってくれ」(「オール讀物」2000年4月号)と困惑しながら離れて行ったという。

 こうして、満塁男は子どもの頃から死にたいくらいに憧れた巨人を自ら去ることを決意するのである。「ボクはもっと中畑コーチと話をしたかったけど、お互いに素直にいうことを聞けなくなっていて、段々と気力も失せていったわけです」(「週刊ポスト」93年11月26日号)なんて週刊誌で不満をぶちまけ、古巣と決別した。


“新天地”横浜での躍動


 藤田・巨人時代のヘッドコーチ、近藤昭仁が監督を務める横浜ベイスターズへFA移籍後は、正一塁手とクリーンナップを託された。時に横浜スタジアムで野次を飛ばすファンに「野球っていうのはな、野次るためにやってるんじゃねーんだよ!」なんて激怒しながらも、持ち前の勝負強さとタフさで若いチームを牽引する。

毎年150本前後の安打をコンスタントにマークし、「3番鈴木尚典、4番ロバート・ローズ、5番駒田」の強力クリーンナップを組んだ97年は、135試合で打率.308、12本塁打、キャリア最多の86打点を記録。そのオフの契約更改では複数年契約を求めるも叶わず、心機一転キャプテンに就任した98年には、マシンガン打線の一員として横浜38年ぶりの優勝に貢献した。

 移籍5年目、36歳で勝ち取った日本一。98年には巨人時代を通して初めてのベストナインにも選ばれ、93年から99年までは一塁手部門で7年連続ゴールデングラブ賞に輝くなど、駒田はリーグを代表する一塁手となった。

マシンガン打線がプロ野球新記録のチーム打率.294(投手を除くと.303)と打ちまくった99年も背番号10は151安打を放ち、2000年にはついに通算2000安打へ……と思いきや、唐突に駒田は「最後の1年」を迎えることになる。


激情家ふたたび


 開幕から「5番・一塁」で出場を続けたが、なかなか打撃の状態が上向かず、6月18日の横浜スタジアムで事件が起きる。広島と同点で迎えた6回裏二死一二塁。勝ち越しのチャンスで駒田が打席へ向かおうとすると、ベンチから出てきた権藤監督に呼び止められ「代打・中根」がコールされる。

 すると「なんでやっ!」と激怒した背番号10は、バットとヘルメットを監督の前で投げ捨て、ロッカーへ一直線。怒りで野球道具をまき散らしながら「もう、どうでもいい。二軍でも何でも行ってやる!」と絶叫した。

当時の『週刊ベースボール』を確認すると、20分後に私服に着替えロッカーから出てきた駒田は、「レギュラーで代打を出された記念すべき第1号でしょう。ウチの代打はほとんど、投手だから」とか、お手上げのポーズをしながら「(権藤監督からは何を言われたかという質問に)何を? これまでだって声も聞いたことない」と吐き捨て帰宅してしまう。

 2000安打まであと30本と迫ったチーム最年長選手の造反事件を重く見て、球団は罰金30万円と二軍降格を通告。駒田は球団事務所で会見を開き謝罪後、ハマスタで練習中の権藤監督のもとに出向き頭を下げた。6月26日には湘南シーレックスのユニフォームを着て、イースタン・リーグのロッテ戦に「4番・一塁」で先発出場している。

 この事件には両者に言い分があるだろう。ベンチからしたら、背番号10の打率は2割台前半で、その日も問題の打席までミンチーに2三振を喫していた。同時に駒田の怒りにも伏線はあり、前年151安打に打率.291という成績を残しながらも、契約更改では4500万円の大減俸を提示されていた。自身のFA移籍時に大洋時代からの生え抜きベテラン選手が大量解雇され、資金確保のためかと物議を醸したが、今度は自分がベテランとなりリストラ寸前の扱いを受けてしまったわけだ。

 オールスター前の7月中旬に1カ月ほどで一軍に復帰するも、8月12日には再び二軍降格。紆余曲折ありながら9月6日の中日戦(ナゴヤドーム)で史上29人目の通算2000安打を放つ。プロ20年目、出場2055試合目での偉業達成だった。

その約2週間後に世代交代のため戦力外通告を受け、10月10日の本拠地での最終戦に「4番・一塁」でお別れのスタメン出場。2000本が達成できたから終わりなんて悔しいと現役続行を模索したが、獲得する球団は現れず、そのまま現役引退へ。歴代5位タイの13本の満塁アーチを記録した繊細さと豪胆さを併せ持つ満塁男は、38歳でユニフォームを脱いだ。

 駒田の横浜移籍後、巨人は大型補強時代へと突入して落合博満、広沢克巳(現・克実)、清原和博、石井浩郎、マルティネスら一塁手を立て続けに獲得。駒田自身も言うように、巨人に残っていたら出場機会に恵まれず2000安打は難しかったかもしれない。

2019年には、BSフジの日本シリーズ特番内で因縁の中畑清や加藤哲郎と共演して談笑する姿も。あれから長い時間が経ったが、「巨人からFA宣言をして国内他球団へ移籍した生え抜き選手」は、いまだに駒田徳広ただひとりである。

 さて、そんな駒田とは対照的に、巨人から出されるくらいなら辞めるとトレードを拒否して29歳の若さで引退を選んだ選手もいる。1985年の定岡正二である。

【次回、定岡正二編へ続く】



文=中溝康隆(なかみぞ・やすたか)
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