コラム

トレード拒否、28歳で引退した元甲子園のアイドル【定岡正二・最後の1年】

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巨人 ・定岡正二=1985年4月

『男たちの挽歌』第17幕:定岡正二


「サダオカ、初めてか? 洋服着るの?」

 天下の長嶋茂雄からなんだかよく分からない質問をされたのは、18歳の定岡正二である。宮崎の大淀川の土手に座って、前年に現役を退いて巨人の監督に就任したばかりのミスターと、まだあどけなさの残るルーキーが対談した。「嬉しいか? 洋服着て?」なんて聞かれて戸惑う定岡は球界を通り越して、当時の日本でトップクラスの人気を誇るスーパーアイドルだった。

 鹿児島実業時代の甲子園では、エースとして2試合連続完封。さらに2学年下の原辰徳を擁する東海大相模高を相手に、延長15回で213球を投げ抜く死闘を制し、その甘いマスクで大人気に。アイドル雑誌で郷ひろみや西城秀樹らと並んで掲載される規格外の野球選手。1974年(昭和49年)秋、V9が終わり38歳の長嶋茂雄が指揮を執る巨人からドラフト1位指名されたことにより、サダ坊人気はピークを迎えることになる。

 多摩川グラウンドの練習にはなんと2万人のファンが集まり、“多摩川ギャル”たちが背番号20の一挙手一投足に注目する。二軍戦にも平日のデーゲームにもかかわらず異例の1万5000人の観客がつめかけた。

 しかし、鹿児島から出てきた18歳には酷な環境だった。チームバスに乗るのにも定岡の周りにはファンが殺到してなかなか進めず、結果的に車内の先輩たちを待たせることになる。一緒に外出すれば自分が騒がれて迷惑をかけてしまう。

 唯一の息抜きは、都心から離れた、よみうりランド近くのジャイアンツ寮周辺の中華料理屋でささやかな食事をすること。いつの時代も国民的アイドルは孤独なのである。


遅咲きの右腕に訪れた唐突な最後


 しかし、イースタンでは好投しても一軍ではなかなかチャンスを掴めない。1つ年上の怪物・江川卓が入団してすぐローテの中心に定着したのとは対照的に、プロ5年目まで未勝利。その秋に行われた伝説の伊東キャンプにも腰痛で不参加という間の悪さはマスコミの恰好のネタになったが、崖っぷちの6年目にようやくプロ初勝利を記録した。

第一次長嶋政権ラストイヤーの80年シーズンに9勝を挙げ(防御率2.54はリーグ3位)ローテに定着すると、翌81年は阪神戦で初回先頭打者に二塁打を許しただけの準完全試合となる1安打完封勝利も達成し、初の二ケタ到達の11勝でチーム8年ぶりの日本一に貢献する。

 実力が人気に追いついたと評された翌82年は15勝6敗、防御率3.29。10完投3完封とキャリアハイの成績を残した。

 持ち球は直球、カーブ、決め球のスライダーというオーソドックスな右腕は広島戦に滅法強く、81年は11勝中6勝、82年は15勝中7勝を稼ぐカープキラーとして知られたが、83年以降は腰痛や慢性の右肘痛を抱え、徐々に先発兼ロングリリーフの便利屋的な立ち位置へ。元甲子園のアイドルも20代後半を迎え、やがて現実の中で生きる術を見つけていく。そして、唐突に28歳のシーズンに「最後の1年」を迎えるわけだ。

 猛虎打線の阪神が球団創設以来初の日本一に輝いた1985年(昭和60年)。王巨人は吉村禎章があのバースと最高出塁率のタイトルを争い、投手陣は20歳の斎藤雅樹が12勝、ルーキー宮本和知が38試合に登板と、ヤングジャイアンツの台頭もあり、チームは夏場まで優勝争いを繰り広げるも9月以降は急失速して3位に。

 定岡はすべてリリーフで47試合に登板。鹿取義隆、角盈男らとともにブルペンの一角を担い、74.1回を投げて4勝3敗2セーブ、防御率3.87。3年前は15勝を挙げている定岡にしては物足りない成績だが、まだ28歳だ。老け込む年ではない。

 10月24日のシーズン最終戦の阪神戦では、8回にマウンドへ上がると一死一塁の場面で併殺打に打ち取りピンチを凌いでみせた。プロ11年目を無難に終えたわけだが、結果的にこれが定岡の現役最終登板となった。


近鉄のエースになれ!?


 翌25日に「飯でも食おう」と球団関係者から呼び出され、「近鉄バファローズのエースになれ」とトレード通告を受ける(相手は有田修三捕手)。しかし、定岡はこれを拒否。11月2日には球団代表に巨人を辞めることを告げ、なんとそのまま28歳の若さで引退してしまう。この一連の騒動は当時大きなニュースとなり『週刊ベースボール』といった野球専門誌だけではなく、『週刊ポスト』や『週刊明星』でも定岡特集が組まれたほどだった。

 巨人が篠塚利夫(現・和典)と近鉄・大石大二郎のトレードを申し込むも断られ、仕切り直しの当初は定岡と有田を軸にした3対3の複数トレード予定だったという。

 そこから二転三転し、10月25日にまず岩本渉外補佐、渡辺管理部長と話し合い、最後に長谷川球団代表と会談したが、これが最初に長谷川代表からトレード話をされていたら、受けていたかもしれない……と寂しそうに笑ってみせる定岡の週べ掲載談話も生々しい。

 トレードを拒否しても巨人残留ができると思っていたが、その後の話し合いで自分が来季の戦力構想には入っていないことを告げられ、近鉄へ行くか辞めるかの選択を迫られたという。そこには説得を試みたが予想外に難航してしまった球団側の焦りも見てとれる。


サダオカの功績と魅力


 そんな中、『週刊明星』では「勝ち星こそ通算51勝の中堅投手だったかもしれないが、後楽園のライトスタンドにギャルをあふれさせたのがこの定岡だ」と独占インタビューを掲載。1億5000万円かけて新居を建設中という話題に触れ、「フーッ、ため息が出ますね(笑)。ジャン、ジャン!だね。見事し・っ・ぱ・い」なんつって唐突に昭和のアイドル路線の緊張感のない発言をかますサダ坊。

「しかしこれ(引退)で、結婚は当分遠のいたでしょう。生活も不安定になったし。それに第一、結婚の話があったら、引退しないで近鉄に行ってますよ」

 そして、「巨人とは何だったか」を聞かれて、「ボクにとっては、青春そのものだった」と、やっぱり所属グループを卒業するアイドルのような野球人生の振り返り方をするわけだ。ほかの選手ならもっとシリアスな湿っぽい雰囲気になっていたかもしれないが、後年『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』の“へなちょこサダ”でお茶の間の人気者となった、定岡正二が元来持つ軽く明るいキャラも手伝い、不思議と悲壮感はない。

 引退から2年後に発売された著書『OH!ジャイアンツ』(CBSソニー出版)によると、定岡は85年に右肘痛に悩まされ、野球を続けようか辞めようか悩んでいたという。そのタイミングでトレードを言い渡された。これも運命だ。「もう知らない球団に行ってイチからやりなおすだけの気力も、体力もなかった」と書き記している。

 世間を賑わせた電撃引退から約3週間後、定岡は29歳の誕生日を迎え、巨人は同年のドラフト会議でPL学園の桑田真澄を1位指名するわけだ。なお、定岡の移籍話と同時期に「ドラフトで清原が獲れたら一塁手の中畑をトレードへ」ネタが紙面を賑わせていたのも今となっては興味深い。

 そんな若くしてユニフォームを脱いだ元甲子園のアイドルとは対照的な野球人生を送った、同期入団のドラフト外投手がいた。巨人からトレードで出されるも、移籍先で劇的な復活を遂げた西本聖である。

【次回、西本聖編へ続く】



文=中溝康隆(なかみぞ・やすたか)
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※訂正とお詫び(2020年4月30日21時25分)
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初出時、「サンチェ投手」の記述がありましたが、誤りでございました。訂正してお詫び申し上げます。
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