コラム

反骨の165勝右腕、37歳のテスト生での再出発【西本聖・最後の1年】

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左足を大きく上げる巨人・西本聖投手の投球フォーム

『男たちの挽歌』第18幕:西本聖


「歳はとるものじゃない。“食う”もの。つまり“食べちゃう”んだ」

 現役晩年の長嶋茂雄はそう言ったが、そのミスターに育てられたある投手も野球に対するハングリーさでは誰にも負けていなかった。まだこんなもんじゃない、まだ終わらない。わずか4勝に終わった32歳のベテランが、翌年に移籍先で20勝投手に。かつて、トレードをきっかけにそんな劇的な復活を遂げた男がいた。1989年(平成元年)の西本聖である。

 巨人では通算126勝を挙げ、81年には18勝で沢村賞と日本シリーズMVPにも輝いた右腕は、88年オフに中尾孝義、加茂川重治との交換トレードで星野仙一監督率いる中日へ移籍する。

 当時の西本は80年から交互に開幕投手を務めていたライバル江川卓の引退、皆川睦雄投手コーチとの確執(球団批判で罰金200万円が科せられた)、さらに桑田真澄、槙原寛己、斎藤雅樹ら20代前半から中盤の若く勢いのある投手の台頭もあり、巨人に居場所はなくなりつつあった。王貞治監督が退任後、復帰した藤田元司監督はチームの世代交代を押し進めようとしていたのである。


ストロング・スタイルの申し子


 西本は74年の第一次長嶋政権発足時に松山商からドラフト外で巨人入り。大学で内野手に転向して再出発と思っていたら、まさかのジャイアンツからの誘いだった。

 左足を頭より高く上げる星飛雄馬ばりのダイナミックな投球フォームで、同期のドラ1定岡正二を強烈にライバル視。自分は契約金800万円に背番号58、サダ坊は契約金3000万円にエース級の背番号20だ。ちきしょう、いつか必ず追いついてやるぞと反骨の男・西本はガムシャラに成り上がる。

 3年目には一軍で8勝を挙げ定岡の先をいき、今度は“空白の1日”騒動で入団してきた怪物・江川に追いつき追い越せと野球人生を送ることになる。当時、巨人のチーム全体が背番号30に対して微妙な距離感を取っていた。定岡や西本も同世代の怪物投手をなんて呼ぶのかを話し合ったという。

 年齢は江川がひとつ上だが、プロでは自分達が先輩。結果、落としどころは「スグルちゃん」。西本は江川のキャッチボール相手まで務めることになるが、しばらくはスグルちゃんを追いかける一方的な片思いだった。どんなに「打たれろ、負けろ」と念じても、涼しい顔で瞬く間にエースの座に登り詰めた天才投手・江川卓に勝つには猛練習しかない。

 少しでも長い距離を走ろうとランニングでは常にコースの外側を走り、内野手のノックが下半身強化に良さそうだと思えばコーチに自分にもやってくれと願い出る。グアムキャンプではひとり浜辺でダッシュする姿が激写されたこともある。貪欲だが、それを目立ちたがり屋だと煙たがる同僚もいた。

 記者投票で江川が敬遠され転がり込んだ沢村賞には、チーム内から祝福の声はほとんどなかったという。皆川コーチと衝突した際は、ゴルフでの和解劇も空振りに終わり、周囲から「ニシ、もっと大人になれよ」と諭されたこともある。

 そう、ストロング・スタイルの申し子・西本はガチンコだった。

 『ベースボールマガジン』2017年6月号の定岡との対談では、最近の球界について「仲良し軍団になったよね。WBCでみんなで日の丸背負った影響もあるけど、普段の試合で、ツーベースを打った選手がセカンドを守っている選手に「ナイスバッティング」と言われて笑ってる。ああいうのは、お金を出して真剣勝負を見に来ているファンの方に失礼じゃないかな」と苦言を呈している。

 グラウンドは戦場だ。気迫を前面に押し出し、内角を抉るシュートで打者と対峙する。中日へ移籍したばかりの三冠王男・落合博満に対しても、臆することなく開幕戦で全球シュート勝負を挑み3本の内野ゴロに抑えた。

 そんな愚直な男のプレースタイルを高く評価したのが闘将・星野仙一である。86年に6年連続二ケタ勝利が途切れて以降は、度々トレード候補として名前が挙がり、西本はもう終わったという声すらあった。しかし、星野監督は88年わずか4勝の32歳右腕を、元MVP捕手の中尾をライバル球団に出してまでトレード獲得したのである。


雑草男の矜持


 西本は藤田監督の元を訪ね、一度は残留を訴えたほどYGマークに愛着があったが、放出されるならパ・リーグかと思ったら古巣と戦えるセ球団への移籍だ。「よし、だったら巨人を見返してやるぞ」なんて雑草男のハートに火がつく。やはりこの男は巨大な敵に立ち向かってこそ真価を発揮する。

 当時の“ケンカ野球”と言われた星野中日のチームカラーも西本には合い、89年に巨人から5勝を挙げ、20勝投手に。キャリア初の最多勝と最高勝率のタイトルを手にした。まさに前年の4勝から劇的な復活である(今の球界で言えば、87年6月生まれで今年33歳になる巨人の野上亮磨が唐突に最多勝争いをするようなサプライズだ)。

 交換相手の中尾も新天地では強気のリードで若い巨人投手陣を引っぱり日本一に貢献、ベストナインとゴールデングラブ賞を受賞した。両球団にとってwin-winのトレードとなり、両者にはカムバック賞が贈られている。

 移籍2年目の90年に11勝を挙げた西本は、3年目も春先から好調だったが、椎間板ヘルニアを患いロサンゼルスで手術を受ける。翌92年は1勝11敗に終わり、中日を自由契約後、オリックスへ。年俸8000万円から5000万円ダウンの3000万円での再スタートを切ったが、まだイチローになる前の無名の鈴木一朗が1番センターでスタメン出場した試合で、西本が先発マウンドへ上がる昭和と平成を代表する選手の運命が交錯するシーンも見られた。

 この年、5勝を挙げるも出来高払いを巡り球団側と衝突し自ら自由契約を申し出る。数日後に電話を掛けたのは、前年93年から巨人監督に復帰していた長嶋茂雄の元だ。そして、西本はテスト生として「最後の1年」に臨むことになる。


YGマークでの最後は…


 94年巨人春季キャンプ、背番号のないユニフォームを着る37歳のテスト生がいた。2度のテスト登板に、1試合の追試。西本の著書『長嶋監督 20発の往復ビンタ』(小学館文庫)によると(それにしても「20発の往復ビンタ」って本のタイトルからして内角ギリギリを抉ってる)、急遽追加された3試合目は「西本さんが投げるんだったら、僕が守ります」と慢性的なアキレス腱痛に悩まされていた原辰徳が三塁守備に就いたという。80年代にともに巨人を支えた盟友からの気遣い。

 なんとか合格を勝ち取った西本は、往年の背番号26ではなく、自身の新人時代に長嶋監督がつけていた90番でプロ20年目をスタートさせる。しかし、だ。当時の堀内恒夫投手コーチが東京スポーツで「オレが西本を使わない全理由」をぶちまけ騒動になる。自著によると、年末に西本は堀内を訪ね、「入団してきたら俺はおまえを起用する」と言われたはずが、「あいつにテストを受けるなと言った」に変わっている。いったいなぜ?

 ともかく直属の上司にここまで嫌われてしまったら、もうチャンスはない。二軍ではハタチそこそこの若手から「西本さん、よくプッツンしないでやれますね」なんて心配されたこともあったという。何の仕事も、年下の後輩から同情されると惨めだ。

 窓際の38歳は、結局一軍で1試合も投げることなく、あの中日と戦った130試合目の同率優勝決定戦も西本はテレビで観た。そして、優勝決定の翌日に長嶋監督に電話を掛け、10月13日に引退会見を開くことを伝えるのだ。

 翌95年1月21日、多摩川のグラウンドでささやかな引退試合が行われる。有志主催の手作り感溢れる雰囲気だったが、過去のチームメイトたちに加え、なんとミスターもサプライズで登場。始球式だけでなく代打で打席にも立ち、西本からボテボテの三塁内野安打を放ち盛り上げた。

 巨人で126勝、移籍後に39勝を積み重ねた反骨の男。なお通算165勝はドラフト外入団投手では史上最多だ。

 さて、その西本が若手時代から尊敬し憧れ、80年11月の引退ゲームでファーストミットを記念に貰った選手がいる。世界のホームラン王、王貞治である。


(次回、王貞治編へ続く)




文=中溝康隆(なかみぞ・やすたか)
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