コラム

40歳で27本塁打、リーグVで有終の美を飾ったミスター赤ヘル【山本浩二・最後の1年】

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広島・山本浩二

『男たちの挽歌』第21幕:山本浩二


 40歳対19歳の4番打者対決。

 1986年(昭和61年)の日本シリーズでは、西武ライオンズのゴールデンルーキー清原和博と広島カープの山本浩二の競演が話題となった。当時、新人類と呼ばれたキヨマーが不惑のミスター赤ヘルに挑む。いわば、球界世代闘争である。

 山本が第1戦で東尾修から巧みの技術で右翼席に同点アーチを放てば、清原は高卒ルーキー新記録のシリーズ11安打を記録。その差、21歳の王道継承。すべては切ないくらいに輝いていた。そしてシリーズ中に40歳の誕生日を迎えた背番号8は、この年限りで現役を引退する。チームトップの27本塁打を放ちながら、4番打者のままユニフォームを脱いだのである。

 なお今では当たり前になった球場での選手への名前コールも、広島市民球場で山本の同級生らが中心になって作った私設応援団が、大声で「コージ!」と連呼したのが始まりと言われている(2020年はコロナ余波でまた違った応援スタイルが模索されているが……)。

 例えば、天下のONに対してはファンも「シゲオ!」とか「サダハル!」とは言いづらい。3000安打の張本に「イサオ!」なんつって叫んだら球場の駐車場で喝を入れられそうだ。でも、コージはいける。なぜなら、ヤツは元熱狂的カープファンでもあり、俺らの街のヒーローだから。あの頃、山本浩二はまさに広島の顔だった。


遅咲きのスラッガー


 地元・広島が生んだスーパースターは、法政大学から68年ドラフト1位でカープ入り。当初は投手出身の強肩と俊足が売りのイチ若手外野手だったが、75年に「浩司」から「浩二」へと登録名を変更。この年、打率.319で自身初の打撃タイトルを獲得、球団初優勝に大きく貢献してMVPにも輝く。

 そして、栄光の30代に突入すると、32歳の78年シーズンに前年に続く44本塁打で初のキング獲得。79~81年には3年連続打点王。20代は一度もなかったホームラン40本台を31歳から5年連続で記録するなど、遅咲きのスラッガーでもあった。

 ちなみに当時の球界は35歳定年制なんて言われるほど、選手寿命が短かった。阪神の小林繁が13勝を挙げながら31歳で現役引退した83年、山本は中堅から負担の少ない左翼へコンバートされ、36本塁打で4度目の本塁打王に輝くが、翌84年には38歳にして打撃コーチ兼任となる。巨人の王貞治助監督のように、数年後の監督就任を見越したレール作りである。

 このシーズンの5月、大卒選手では長嶋茂雄以来2人目の通算2000安打を達成。しかし、後半戦では11年ぶりに打順が6番に降格したり、一時打率が2割5分を切り休養目的で大洋3連戦を欠場するなど、古葉竹識監督の以前とは異なる起用法も目立った。


ONから新たな球界の顔に


 結局、終わってみればコーチ兼任ながらチームメイトの誰よりも多い33本塁打を放ち、カープ4年ぶりの日本一というご祝儀もあって、球界最高給となる年俸8500万円で契約更改。まさにON引退後の球界の頂点に君臨してみせた。

 『週刊サンケイ』85年1月10日・17日号の長嶋茂雄との対談では、当時全国区の人気を誇った巨人に対して、男盛りのギラついたコージはこんな対抗意識を燃やしている。

「うーん、正直いって、人気だけっちゅう気がしないでもない。なかには一流といえるのもいますが、そうでないものも多い。それに努力が足りない。うちのキヌ(衣笠祥雄)やヨシヒコ(高橋慶彦)の練習はすごいですよ。(ジャイアンツは)もっと鍛えなきゃダメだと思います。彼らも力をつけ、その上でうちが彼らをやっつける。そういうふうにならないと、おもしろくありませんよ」
 
 さすが最高年俸選手。球界全体の盛り上がりを考えた発言も多かったが、一方で持病の腰痛に加え、背筋、太ももと満身創痍の状態でグラウンドに立っていた。

 85年の自主トレ初日には担当記者から「引退をかけてのスタートですね」なんて質問され、「何ていうことを聞くんや。引退だなんてそんなこというなよ」と一喝。阪神の猛虎フィーバーで沸いた85年の山本は通算500本塁打に200盗塁も達成したが、オープン戦で右足ふくらはぎを痛めた影響もあってプロ入り以来最少の113試合の出場に終わり、打率.288、24本塁打と低迷した(……って、冷静に見たらこの成績でもバリバリ主力選手なわけだが)。

 王貞治と同じく、4番打者は4番打者のまま終わる引き際の美学。39歳の山本は『週刊ベースボール』にこんな言葉を残している。

「打てなくなって、走れなくなって、ボロボロになってスタンドから同情されてまでプレーは続けたくない。一番理想なのは惜しまれながら、静かに球場を去ること」

 そして1986年、山本浩二はプロ18年目の「最後の1年」を迎えるわけだ。


4番としての矜持


 しかし、終わることなどあるのでしょうかと思わず突っ込みたくなる猛打を背番号8は開幕から披露する。打率.378、8本塁打、19打点で4月の月間MVPに輝く最高のスタートを切ったのだ。

 6月には同学年の盟友・衣笠が2000試合連続出場を達成。12球団トップのチーム防御率を誇る強力投手陣を擁し、広島は前半戦を首位ターン、山本はファン投票でオールスターにも選出される。なおミスター赤ヘルの球宴通算14本塁打は王と清原を抑え歴代最多記録である。

 その一方で山本は6月頃から自身のバットの振りの鈍さに気付き、夏頃にはいよいよ体力的な限界を感じ、打ち込みよりも体のケアを優先させるように心がけた。

 後半戦開始直後、「ワシの息子のような連中を相手にしていて、打てない時などは考えてしまうワ。これでいいのかってな」と、元同僚・江夏豊に心情を吐露した『週刊ポスト』86年8月1日号の直撃インタビューでは、自身の置かれた立場をこんな風に語っている。

「みんな今にバテるやろう、バテるやろって、気を遣って心配してくれるから(笑)。まぁ、なんとなく自分では行けそうな気がするんだけれど。それにサチ(衣笠)も最近上向いてきとるし、いいんじゃないのかな。だから、まだまだ城は明け渡さんぞ、やね」


ラスト・ダンス


 ところが、山本と衣笠への依存度が高いカープ打線はベテランふたりに疲れが見えだした夏場に急失速。8月下旬には巨人に最大5.5差をつけられるが、9月に13勝6敗と巻き返し、両球団は球史に残るマッチレースを繰り広げた。

 ラスト10試合でともに8連勝を記録。広島が優勝を決めたのは130試合制の129試合目で、勝利数は広島73勝に対して巨人75勝、最後は引き分け数が4つ上回ったカープが競り勝ったが、わずか勝率3厘差、ゲーム差0の接戦だった。

 その激しいV争いの最中、10月9日のスポーツ新聞一面に「浩二引退」の見出しが躍る。もちろん誰もが今年限りと薄々感じていたが、これには「個人のことでチームの優勝争いに影響が出たらどうする」と山本本人も怒ったという。そして、優勝を決めた翌13日の神宮球場でのヤクルト戦、9回表二死無走者で打席に入った4番・山本はヤクルトの矢野和哉投手から左翼席へ豪快な一撃を叩き込む。

 自身の公式戦最終打席での一発は、王貞治、野村克也、門田博光に次ぐNPB歴代4位の通算536号にして、球団通算4000号のメモリアルアーチ。この試合、衣笠も本塁打を放っており、通算86度目のアベックホーマーとなった。

 結局、最終年の山本は130試合中125試合で4番を張り、史上初めて第8戦までもつれこんだ西武との日本シリーズも全試合「4番・左翼」でスタメン出場。だが、10月25日に40歳の誕生日を迎え、背筋痛の影響もあり27日の第8戦試合前フリー打撃を回避するほどギリギリの状態だった。

 最後は西武が1引き分け3連敗から4連勝の逆転日本一に輝くが、試合後セレモニーが終わると、広島ナインがグラウンドに飛び出し背番号8を胴上げ。広島市民球場に鳴り響く、コージコールに主役は幾度となく涙を拭ってみせた。その夜は衣笠とお互いの妻を連れ会食。締めはカラオケで盛り上がったという。そして翌28日、会見を開き正式に現役引退を表明する。背番号8は球団史上初の永久欠番に。

「山本浩二は幸せ者です。山本浩二は本当によくがんばった」

 ミスター赤ヘルはそう18年間の現役生活を振り返った。大学出身で通算500本塁打は達成したのは山本が初めて。4度の本塁打王、3度の打点王。536本中367本を30代で放った。外野守備の安定度は球界屈指で、75年には302守備機会無失策のセ・リーグ記録を樹立。ダイヤモンドグラブ賞を10年連続で受賞している。

 「最後の1年」の86年成績は打率.276、27本塁打、78打点、OPS.857。本塁打、打点はチームトップで打率も同2位。外野手ベストナインにも選出された。だが、あくまで自分は4番打者のままで終わる。この堂々たる成績でも、ユニフォームを脱ぐことを選んだのである。


ミスター赤ヘルとして


 なお、山本が西武の根本陸夫管理部長へ挨拶に行くと、「清原の見本になってくれ」とライオンズに誘われたという。DHならあと数年は充分できたし、パ・リーグで秋山・清原・山本の“AKY砲”の夢のクーリンナップ結成は魅力的だったが、ミスター赤ヘルはカープ一筋で終わることを貫き通した。

 翌87年4月5日、広島市民球場のオープン戦で引退試合が行われた。内野席オール1000円、外野席無料の球場には3万人のファンが集結。外野席には2603着の赤い雨合羽で「ありがとうコージ」の人文字が作られた。

 4番・中堅で先発出場した山本は第2打席でライト前ヒットを放ち、試合後はグラウンドを一周してファンにお別れ。ペナント開幕5日前の大々的な引退試合。かつて、これほどまで愛されたフランチャイズ・プレーヤーがいただろうか? この2年後、山本浩二はカープの青年監督として広島市民球場へ戻ってくることになる。

 さて、時計の針を少し戻そう。86年日本シリーズ第8戦、現役最後の真剣勝負に臨むミスター赤ヘルは7回裏に三塁線を破る二塁打を放ったが、その相手投手はパ・リーグ最多勝に輝いた西武の若きエース、当時21歳の“新人類”渡辺久信である。

【次回、渡辺久信編に続く】


文=中溝康隆(なかみぞ・やすたか)



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