コラム

2年連続三冠王の史上最強助っ人は、なぜ突然日本を去ったのか?【バース・最後の1年】

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伝説の助っ人ランディ・バース (C) Kyodo News

『男たちの挽歌』第23幕:ランディ・バース


「バースの再来」

 野球ファンはこの言葉をいったい何度耳にしたことだろう。阪神に新外国人選手が来る度、30年以上に渡り今度こそはと期待され、その現役時代には生まれてもなかった若手スラッガーの大山悠輔が本塁打王争いをすれば「タイガースでは86年バース以来のキングいけるで!」なんて盛り上がる。

ちなみにバースが来日した1983年(昭和58年)に任天堂から発売されたのがファミリーコンピュータだ。令和の最新ゲーム機PS5を見て「ファミコンの再来!」と言っちゃうレベルで「バースの再来」は息の長い単語なのである。

 83年来日時、名前をカタカナ表記すれば“バス”が一番近いが、マスコミや熱烈ファンに「おんぼろバス」と野次られることも心配して登録名は“バース”になった男が打ち立てた2年連続三冠王、日本記録のシーズン打率.389、7試合連続本塁打という偉業の数々。

54本塁打を放った85年、背番号44はペナントと日本シリーズでダブルMVPを獲得して、阪神21年ぶりのリーグVと球団初の日本一に導く。ジレットのテレビCMでトレードマークのヒゲを剃り「カミソリノ、サンカンオウダ」と笑い、プロ野球史上最も有名な助っ人選手になった。

 だが、昭和最後のシーズンに“神様”は突然、甲子園から去る。1988年(昭和63年)、史上最強助っ人ランディ・バースの「最後の1年」を追ってみよう。


首脳陣の交代と不信感


日本一後の阪神は86年に3位に滑り込んだものの、87年は球団ワーストの83敗を喫し、勝率.331で首位巨人と37.5ゲーム差の最下位に沈んだ。

主砲の掛布雅之は開幕前に飲酒運転事件を起こし、オーナーから「大バカで幼稚な男」なんて激怒され、本職でも腰痛に悩まされ打撃不振に陥ってしまう。バースは当然のように3割30本をクリアしたが、この年にロッテから中日へ移籍してきた落合博満とのセ・パ三冠王対決は、落合の最高出塁率獲得のみに終わる。

「いきなり、ズルズルと連敗し始めたんだ。オレたちみんな、まるで睡眠薬を飲まされたような感じだった。ノロノロと動きがにぶくなって、まるで打てない。オレたちゃ、ふらふら虎だ」なんつってさすがのバースも『週刊ポスト』87年7月17日号インタビューで意味不明なエクスキューズをかますくらいチーム状況は最悪だった。自身も大洋戦でホームランを放った直後、滑り止めスプレーをバットの先端部までつける行為に相手ベンチからクレームをつけられたこともある。

そして、吉田義男に代わり村山実が監督に就任した88年シーズン、34歳の最強助っ人はこれまでの3番ではなく「4番一塁」で開幕を迎えるが、いきなり4連敗スタートとつまずき、バースのシーズン第1号もチーム11試合目と調子は上がらなかった。

 なにより村山監督と当時のベテラン選手たちの関係性は冷えきっていた。

『バースの日記』(集英社文庫)では、「罰則のハードなランニングをしたからといって、われわれが上達するというのか。まったく、バカな話である」と根性論の指導法に疑問を呈し、村山監督が自分の若い頃の武勇伝を語る結婚式のスピーチも「まったく場違いな、バカなスピーチだった」と一蹴。

試合後は選手会ミーティングで、「どうせ監督は来年クビだろう」なんて盛り上がった生々しい様子が記録されている。


主砲と球団とのすれ違い


 一般企業でもプロ野球チームも結果が出ないと現場から不満がでるものだ。バースの日記からはボスに不満を持ちながらも、87年オフに阪神と年俸1億7000万円の新たな2年契約を締結しており、まだまだ日本球界でプレーし続けていく様子が綴られている。だが、そんな日常が一変するのが、88年5月6日だ。

目の異常を訴えた愛息ザクリー君の精密検査をすると、頭部に水がたまる水頭症で、脳腫瘍の疑いがあると診断されてしまう。泣き崩れるバース夫妻。もう野球どころではない。早急な治療が必要だ。それ以降、バースの名は阪神のスタメンから消えた。

 5月13日から14日にかけて、バースは球団側と話し合い、ザクリー君をサンフランシスコの病院に移すため、5週間だけアメリカへ帰国してよいという書類にサインをさせられる。

息子の治療費は契約通り球団が保険で支払ってくれるのかと聞くと、友人で阪神編成部員兼通訳の本多氏は「間違いなく支払う」と答えたという。だが、実際のところ球団は保険には加入しておらず、この治療費を巡り、のちに阪神とバースは泥沼の争いをする事態になる。

 帰国後も電話で何度かやり取りして、契約書通り6月中旬に一度日本へ戻ると話すバースに対して、「なにも無理して帰ることはない。6月21日までにいつ帰って来られるか知らせてくれ」と本多氏から提案される。

それが、やがて7月1日に帰ってきてほしいという要望に変わり、日程を調整しザクリー君の容態も安定したことから、バースは6月26日に球団事務所に電話を入れて「明日、日本へ行くよ」と本多氏に伝える。しかし、だ。翌27日午前4時、バースのもとに一本の電話が入る。

「君は、解雇だ」

 それを告げる本多氏もつらそうだったという。もはや上層部で物事は決まり、自分はそれを伝えることしかできないんだと。当時の阪神は、6月10日に球団社長を退任させ、新たな人事ラインの突貫工事で球団を強引に次のサイクルに持っていこうとしていた。つまり、85年優勝メンバーで高額年俸の人気選手だった掛布とバースのいないチーム作りである。

背番号31のミスタータイガースは6番降格、さらに『週刊文春』88年7月28日号によると試合後の話し合いで村山監督から「掛布、お前は疲れてるんや。女房連れて温泉にでも行ってこいや」と遠回しに事実上の戦力外を告げられてしまう。結局、掛布はこの年限りで33歳の若さで引退することになる。


最強助っ人との別れと暗黒期のはじまり


 バースも球団側とロサンゼルスで話し合いを持つが、今後の治療費を巡り事態は長期化。年俸の支払いについて、2年契約270万ドル(3億5100万円)の内、すでに7300万円の支給は受けたが、残り2億7800万円はどうするのかといった交渉の詳細が当時のマスコミにはすべて漏れていた。

『バースの日記』によると、9月下旬にようやく医療費名目の総額155万ドルに加え保険に代わる信託基金の設定などで和解したという。しかしその間、他にも様々な業務に追われ心労が重なった阪神球団代表が自殺する騒動もあった。

バースの代わりにルパート・ジョーンズというスキンヘッドの新外国人選手を緊急獲得するも、話題になったのは日本球界初の「背番号00」のみで、チームは最下位を独走。自ら最強助っ人を手放した阪神は、これ以降しばらく暗黒期へと突入する。

 結局、88年のバースは5月5日の試合を最後に戻ることなく、わずか22試合の出場で打率.321、2本塁打、8打点。だが、当時まだ34歳の最強助っ人に多くの球団が水面下で接触しており、本人も日本での復帰を望んでいた。

来日1年目の阪神監督を務めた安藤統男氏が作戦コーチでいたヤクルト入りが度々報じられたり、88年12月の『週刊現代』独占インタビューでは「今のところ、代理人にはスワローズとホークスから話が来ている。メジャーリーグ3球団からも誘いがあるが、阪神タイガースにいたときの年俸を保証してくれれば、ボクは喜んでホークスにいくよ」と福岡に移転したばかりのダイエーに強い興味を示している。


全盛期のまま引退へ


 現実的にメジャーの控え一塁手兼代打要員より、高額年俸の日本球界でプレーしたい。興味深いのは『週刊ポスト』88年8月5日号で取材を受けたバースの「いま中日ドラゴンズが誘いにきている。落合とオレで3番、4番を打たせたいらしい」というコメントだ。もしバースと落合が並ぶ夢のクリーンナップが実現していたら、どんな強竜打線が完成していただろうか。

 なおバースは平成が始まったばかりの89年春、回復したザクリー君とともに再来日。お世話になった人々に挨拶とお礼を伝え、初めて東京ドームで巨人と西武のオープン戦を親子で観戦したと『週刊ベースボール』の取材に答えている。日本では1億円を超えると報道された治療費は、実際はトータル5万ドル(650万円)ほどで済んだという。

 しかし、それ以降バースが日本球界に復帰することなかった。34歳での事実上の引退である。一連の医療費の交渉がバースはカネで球団と揉めているというイメージとすり替わり、足枷になってしまった感は否めない。

NPB6年間で通算打率.337、202本塁打、486打点。OPSは1.078という凄まじい数字と強烈なインパクト。今も「神様バース」の最強神話が根強いのも、結果的に他球団に移籍せず全盛期のままユニフォームを脱いだことが大きいのではないだろうか。ファンに衰えた姿を見せることなく、三冠王のイメージを残したまま突然去ってしまった。 

 さて、そんなバースと同時代に日本球界で活躍し、人気を二分した助っ人が巨人の背番号49。ウォーレン・クロマティである。

(次回、クロマティ編に続く)

文=中溝康隆(なかみぞ・やすたか)

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