コラム

巨人史上最強助っ人は、打率4割に最も近付いた翌年になぜ日本を去ったのか?【クロマティ・最後の1年】

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東京ドームで初の優勝を決め、スタンドのファンにバンザイでこたえるクロマティ(49)、原(8)ら巨人ナイン=東京ドーム

『男たちの挽歌』第24幕:ウォーレン・クロマティ


「まぁ負けた時は監督が悪いんだよ。選手はみんなよくやってんだからさ」

 親分はべらんめえ口調のあの名調子でそう言った。1981年(昭和56年)秋、両球団が同じ本拠地を使用することから“後楽園シリーズ”と呼ばれた巨人との日本シリーズ第4戦。相手先発の江川卓に2点に抑え込まれ、試合後に敗戦を振り返る日本ハムの大沢啓二監督は、テレビカメラの前で記者に囲まれ、なんとタバコをふかしながらコメントしていた。

 えっ刑事ドラマの取調室? なんて一瞬錯覚しそうになるド迫力シーンだが、そう言えば日本球界のヘビースモーカーぶりにカルチャーショックを受けていたのが、来日直後のウォーレン・クロマティである。

 MLBのエクスポズで通算1063安打を放った現役バリバリの大リーガーは、84年に3年180万ドル(約4億2480万円)の大型契約で王貞治新監督率いる巨人へ入団。30歳とまだ若く、1年目からチーム最多の35本塁打を放った背番号49は、2年目の85年も打率.309、32本塁打、112打点の好成績で、原辰徳に代わり第50代4番打者を託された。

 シーズン末の骨折で無断帰国をかまして罰金100万円を科せられるオチはついたが、愛息に“コーディ・オー・クロマティ”と名付けるほどボスとの関係も良好だった。


王巨人の救世主


 スタンドへのバンザイコール、拳を突き上げる派手なガッツポーズ、左打席での極端なクラウチングスタイルの構えを少年たちはファンタグレープ片手に放課後の校庭で真似したものだ。

 3年契約最終年の86年シーズンは打率.363、37本塁打、98打点、OPS.1.095。勝利打点18という無類の勝負強さを発揮。ランディ・バース(阪神)の2年連続三冠王で打撃タイトルの獲得こそならなかったが、クロマティは王巨人の救世主と称された。

 10月2日、頭部死球を受けた翌日に入院先の慶応病院から神宮球場のヤクルト戦へ直行し、3対3で迎えた6回表二死満塁の場面、緊急代打でバックスクリーンに満塁ホームランを叩き込んだシーンは今でも語り草だ。当時の『週刊ベースボール』表紙には、「クロウ、君こそ巨人の誇りだ」「神様、仏様、クロウ様……G党はあなたを支持します」という見出しが踊っている。

 だが、開幕前に「今年で引退してミュージシャンになる」と宣言した翌87年は一転、中日戦で乱闘騒ぎを起こし、西武との日本シリーズでセンターを守った際にシングルヒットで一塁走者の生還を許すなど“怠慢プレー”と叩かれてしまう。

 88年6月13日には甲子園の阪神戦で左手に死球を受け親指骨折で離脱して、代役の呂明賜が大活躍すると、クロウ不要論も一部では報道される。同時期に趣味の音楽ではロックバンド「クライム」でドラムを担当し、『夜のヒットスタジオ』でご機嫌な演奏を披露、アルバム『テイク・ア・チャンス』でCDデビューもした。いやドラムを叩くって手の骨折箇所にめっちゃ悪い気が……じゃなくて、自宅にスタジオを作るのに数千万円を投じたものの、売上げは約3万枚で印税は150万円程度だったという。

 やっぱり日本で稼ぐならオレには野球しかないネ。平成に突入した1989年、年俸150万ドルで残留した男は凄まじい快進撃を見せる。

 長打狙いから確実性重視の打撃スタイルにモデルチェンジ。序盤から安打を量産し、5月下旬の時点で打率.470を超えるハイアベレージを記録。8月20日終了時の96試合目に打率4割台を維持したまま、130試合制の年間規定打席403に到達し、計算上ではこの後の試合を休めばプロ野球初の4割打者が誕生していたことになる。最終的には打率.378で初の首位打者を獲得、MVPにも選ばれ、チームは8年ぶりの日本一に輝いた。

 まさにキャリアの絶頂を迎えた最強助っ人。だが、36歳のクロマティは翌年、日本での「最後の1年」を迎えることになる。来日7年目の90年シーズン、例年通りキャンプ終盤にチームに合流したクロウは、ホテルの自室に大量のCDやカセットを持ち込み、レンタルビデオでリラックス。藤田元司監督の許可を得て、マイペース調整を続ける。


球団最強助っ人の最後の1年


 数年前からの恒例「今シーズン限りで野球は終わらせて、ミュージシャンになる」宣言は相変わらずで、毎度お騒がせの引退パフォーマンスとマスコミも呆れ気味。実際は年俸230万ドル(当時のレートで約3億3000万円)まではね上がり、キリンラガービールのテレビCM出演や、ファミコンソフト『スーパーリアルベースボール』のイメージキャラクターにも起用されるニッポンのスーパースターの座を捨てるわけがないと見られていた。

 しかし、背番号49は開幕から想定外の打撃不振に襲われる。4月は打率2割台前半に低迷。前年の序盤は4番原が絶好調でマークが分散したが、その原が開幕戦で故障離脱してしまい相手バッテリーからクロウは歩かせてもいいと勝負を避けられ、それにイラつきボール球に手を出しバッティングを崩す悪循環。

 6月2日の広島戦で敬遠球を強引に打ちにいきサヨナラ打を放つ印象的な活躍もあったが、淡白なプレーが目に見えて増え、打率4割に挑戦した前年の輝きはなかった。しかも自分が絶不調でも、斎藤雅樹や桑田真澄が中心の若返った投手陣が引っ張るチームはリーグVに向けて独走している。

 90年7月12日、クロウはオールスター外野手部門ファン投票1位に選ばれると、「これが、オレにとって最後のオールスターゲームになるだろう」とコメント。7月23日には外国人記者クラブに招かれ「来年からは子供とアメリカで一緒に暮らしたい」と具体的なプランを語り、今度こそ9月で37歳になるベテランの引退宣言かと話題となった。

 球宴前から後半戦のスタート4試合を挟み自己ワーストの31打席ノーヒット。7月31日のヤクルト戦ではスタメン落ちする極度のスランプだったが、8月3日の広島戦で天敵の川口和久から32打席ぶりのヒットとなる決勝の6号2ランを放ち意地を見せる。

 この約1カ月ぶりの本塁打から調子を上げていくが、クロマティの90年最終成績は打率.293、14本塁打、55打点という来日以来最低の成績に終わった(それでも例えば2020年にパーラが同等の数字を残したらG党は歓喜するだろうが)。藤田巨人は88勝42敗で2位広島に22ゲーム差をつけ、9月8日に史上最速の大独走リーグV2を達成する。


物議を醸した引退発言?


 優勝決定後は「日本に来て7シーズンで3回もリーグ・チャンピオンになれたんだから、オレはとても楽しかったよ」なんて自身のキャリアの総括をする一方で、予定されていた引退会見をキャンセルして「すべては日本シリーズが終わってから発表したい」と現役続行を匂わせる。

 当時の週べでは、9月上旬にクロウと話し合いを持った藤田監督が「こちらから辞めろとは言わない」と明言しており、本人が希望すれば残留の可能性も。

 しかし、同時期の『週刊ポスト』掲載のインタビューが物議を醸す。「99.9パーセント引退するといっておくよ」と宣言してから、「オレとしては日本シリーズでエキサイトすることはできないんだよ。なんだか、セとパが入り乱れて試合する春のオープン戦みたいに思えちゃうし……」とか「日本では“栄光の巨人軍”といっても、オレには分からない。育った環境が違うんだから、ワールドシリーズへの想いと、日本シリーズを一緒にはできないんだ」なんてすでに気持ちの切れたかのような発言を連発し、実際に巨人は日本シリーズで黄金時代の西武ライオンズにまさかの4連敗で終戦してしまう。

 ストーブリーグの巨人とクロウの交渉の行方が注目されたが、12月に巨人は新外国人選手のフィル・ブラッドリーの獲得を発表。クロウはロイヤルズでの大リーグ復帰を選択する。

 翌91年に雑誌『宝石』掲載の梅田香子氏によるインタビューでは、「去年の11月。国際電話で通訳のヒラノが年俸ダウンならもう1年契約してもいい、と言ってきた。信じられるかい? こんなに巨人のためにやってきたのに、オレのことをヤツらは侮辱した。悲しかったよ」と年俸ダウンを不服としての退団だったことを示唆。つまり、条件次第では91年も巨人8年目のシーズンを迎える意志はあったということだ。

 スーパースターの日本時代は230万ドルだった年俸も、ロイヤルズでは出来高含め30万ドルほど。ときに慣れない一塁を守りながら代打中心の起用で3割を越える打率を残したが、91年シーズン中に現役引退を表明した。


 91年開幕前発売の名著『さらばサムライ野球』(ウォーレン・クロマティ/ロバート・ホワイティング/翻訳 松井みどり/講談社)では、日米文化論からチームメイトの素顔まで書き尽くしているが、現役最後の90年シーズンのプレー描写だけは、尊敬する王さんに電話で臨時打撃コーチを依頼したがダメだった……と異様に短い扱いであっさり終えている。まるでエピローグのような扱いだ。

 そう、クロウにとって巨人7年目の90年はエピローグのようなシーズンだった。ある意味、MVPと日本一のすべてを成し遂げた89年に、栄光のストーリーの本編はすでに終わっていたのだ。

 NPB7年間で通算打率.321、951安打、171本塁打、558打点。クロウと決別した巨人は、その後しばらく苦労することになる。なにせ退団から30年経った今もクロマティ以上の人気と実力を持つ自前の外国人野手はひとりも現れていないのだから。さて、そんな巨人史上最強助っ人が、自身のYouTubeチャンネルで「大リーグで間違いなく通用した」と絶賛する日本人プレーヤーがいる。

 巨人を完膚なきまでに叩きのめした、黄金時代の西武ライオンズを象徴する男、秋山幸二である。

(次回、秋山幸二編へ続く)


文=中溝康隆(なかみぞ・やすたか)

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