

猛牛ストーリー 【第25回:阿部翔太】
連覇と、昨年果たせなかった日本一を目指す今季のオリックス。監督・コーチ、選手、スタッフらの思いを「猛牛ストーリー」として随時紹介していきます。
第25回は、プロ2年目の今季ここまで抜群の安定感を示している阿部翔太投手(29)です。28歳の時に日本生命からドラフト6位で指名を受けたオールドルーキーは、肩痛により不本意な1年目を送りましたが、支配下登録を目指して再起を図っていた近藤大亮投手とともにトレーニングを積んで復調。本拠地・京セラD大阪の地元、大阪市大正区で生まれ育ち、球場にも通っていたという右腕は「大正区を盛り上げたい」と意気込んでいます。
イニング数を超える16奪三振
不退転の決意。熱い男のハートをヒートアップさせたのは、4月27日の日本ハム戦(東京D)だった。
2-2の7回。安打と2つの失策で無死満塁のピンチを迎えた先発・宮城大弥を継ぎ、今川優馬を中飛、石井一成を捕邪飛、近藤健介を中飛に仕留めた。
この間、わずか6球。135キロ前後の内外角低めのフォークボールで空振りを取り、145キロのストレートで詰まらせる。打者に向かっていく強気の投球の面目躍如だった。
今季はここまで13試合に登板。14回2/3を投げて、失点・自責点はゼロ。被安打4、与四死球3もさることながら、16奪三振が光る。
6月7日の交流戦・ヤクルト戦(京セラD大阪)では、6-1の9回から3番手として登板。中村悠平、内山壮真、オスナを3連続三振に片付け、チームの6連勝に貢献した。
波乱万丈の野球人生
社会人野球の名門・日本生命からオリックス入りしたが、「自分をエリートだと思ったことは一度もありません」と言い切るほどの山あり谷あり、波乱万丈の野球人生だ。そして、節目で人に恵まれてきた。
京セラD大阪から徒歩約10分の大正区泉尾で生まれ育ち、小学校で始めた野球。近鉄バファローズのファンクラブに入り、プロ野球選手に憧れた。
中学から肩の強さを買われて捕手になったが、下級生に定位置を奪われ、野球に対する情熱は薄れていった。そんな時、山形・酒田南高でコーチを務めていた中学のOBが「やる気があるなら、うちに来い」と声を掛けてくれた。
「初めて野球に本気で取り組み、自分でも変わったと思えた」
2年の夏には甲子園出場を果たし、先発マスクを被って安打も放った。
しかし、今度も下級生に定位置を奪われた。2年下に下妻貴寛(元楽天)が入学。3年春からは投手に転向を余儀なくされた。
小学生以来の投手だったが、これが再び転機となる。球速140キロをマークし、大学からも声が掛かるように。
「肩は強かったけれど、実力的には捕手を続けて大学に進学しても、そこで終わっていた。社会人野球にも進めなかったと思います」と振り返る。
進学したのは、京都・成美大(現・福知山公立大)。酒田南に誘ってくれたコーチの転身先だった。
全国的には無名だが、自分を変えてくれたコーチへの恩義があった。リーグ戦で活躍はしたものの、肘や肩を故障するなど、プロの道は遠かった。
今度は、チーム関係者の「日本生命の練習に参加してくれば」という一声で、チャンスが訪れる。
「大企業だから大学名で判断するんだろうなと思って行くのも嫌でしたが、たまたまその日はすごく調子がよくて採用してもらえました。本当に周りの人に恵まれました」と感謝する。
ただ、ここでもケガに苦しむ。1年目と、ドラフト指名にかけた3年目に肩などを痛めてしまう。気がつけば社会人6年目、28歳になる秋を迎えていた。
オリックスから指名を受けた際に、迷いはなかった。
「ここまでエリートで来ていたのならプロ入りしなかったのかもしれないが、ここまで何とかなって来た。ここで安定志向になってもな、というのもあって。チャンスがあって行かないという選択肢はありませんでした」と阿部。
しかし、プロ入り直後にまたも試練が訪れる。2021年5月7日のロッテ戦(ZOZOマリン)で肩を痛め、以後マウンドに登ることはなかった。
ともに復活の道を歩んだ戦友
「思えば、大学、社会人でも1年目にケガをしてきたが、そこから巻き返してきた。腹をくくり自分の意志でプロに来たので、ここも腹をくくるしかないと」
大卒の社会人経験6年。即戦力として入団した阿部にとって、2年間で結果を出さなければ後はないことは分かっていた。
ここでも、手を差し伸べてくれる人がいた。近藤大亮だ。
「来年に向け、やるしかない」と覚悟を決めた昨年9月中旬。「一緒にやるか」と声を掛けてくれた。
トミー・ジョン手術を受け、育成契約からの再起を目指していた近藤。大阪府羽曳野市内のトレーニングジム「Rebirth」(リバース)を紹介され、2人で体をケアし、鍛える日々が続いた。
営業時間前の午前5時に通い、約4時間にわたり体を鍛えるハードな日々。近藤は今季、背番号「124」から慣れ親しんだ「20」にカムバック。阿部も本格的にプロのスタートに就くことが出来た。
2人で勝利に貢献した場面が、5月17日の日本ハム戦(ほっと神戸)にあった。
先発・山岡泰輔が野村佑希の頭部に死球を与え、危険球退場に。4回一死一・二塁から緊急登板した阿部がピンチを断ち、3イニング目の6回一死から二塁打と四球を与えて降板。
後を継いだ近藤は、次打者に安打を許し満塁としたものの、そこから二者連続の空振り三振。ガッツポーズでマウンドを降りる近藤に、ベンチから飛び出した阿部がグータッチ。さらに抱きついて喜びを表現した。
「緊急登板で3イニング目だったので、『よう頑張った。任しとけ』と言いました」と近藤。
「やることをやって、復活することができなかったらしゃあないと思えるほど、2人でやってきました。心が折れそうな時が何度もありましたが、『来年は、絶対に2人で這い上がろう』と。お互いに苦しんでいる姿を見ているので、ああいうシーンになったのでしょうね」と振り返った。
「大正区を盛り上げたいですね」
大正区内には今も実家があり、多くの親戚も居住している。
本拠地の最寄り駅・JR大正駅近くの中華そば「花京大正店」には、3歳年下の従妹がパートで働いている。
「コロナ禍で店には行けていませんが、観戦後のオリックスファンが立ち寄ってくれているそうです。僕が活躍することで他のお店も含めて、大正区を盛り上げたいですね」
生まれ育った街にあるプロ野球チームに入団することができたのは「奇跡的」という阿部。人に恵まれ、数々の難局を乗り越えてきたからこそ、これからは活躍することで恩返しをしたいと考えている。
「無失点はたまたまです。そんなにすごい球を持っているわけでもないので、1試合1試合、1球1球、気持ちだけでも打者を上回っておきたいという思いが強くあります。打たれたらしょうがない、それが実力なんで。弱気になって打たれたら後悔するので、強気になってやれるだけのことをやるだけです」
「今、抑えていても(投げることができなかった)昨年の悔しさを晴らせたとは思ってはいません。そんな気持ちを忘れずに続けたいと思います」
マウンドではトレードマークのえくぼを封印し、強気に打者に立ち向かう。
取材・文=北野正樹(きたの・まさき)