

猛牛ストーリー 【第34回:棚原安子さん】
連覇と、昨年果たせなかった日本一を目指す今季のオリックス。監督・コーチ、選手、スタッフらの思いを「猛牛ストーリー」として随時紹介していきます。
第34回は、大阪の街を明るくすることなどに貢献した地元のヒーローを招く「なにわのHERO始球式」に登板した、少年野球「山田西リトルウルフ」(大阪府吹田市)の指導者・棚原安子さん(82)です。
1972年に夫の長一さん(84)とチームを設立。1200人以上を指導し、今もノックバットを握る名物指導者です。
始球式では、プロに進んだ唯一の教え子・T-岡田と“対戦”。ケガに苦しむ浪速の轟砲を激励しました。
“岡田少年”との思い出
少年野球を50年以上指導してきた棚原さんにとって、特別のマウンドだった。
プロの選手が喜びをつかみ大きく羽ばたく一方で、打ちのめされ悔しさを味わってきた「神聖な場所」(棚原さん)。しかも、打席では自身が野球に誘ったT-岡田がバットを構えていた。
一度投球動作に入ってから投球を取りやめ、再度投げ込んだボールはホームベース手前でバウンドしたが、T-岡田のバットはくるりと回った。
「走者がいれば、ボークでした。届きはしないと覚悟はしていましたが、(本塁までの)18メートル44はとてつもなく遠かったですね」と、ちょっぴり悔しそうな表情でプロのマウンドを振り返った棚原さん。
公園で虫取りをしていた大柄な少年に「おばちゃんと一緒に野球をしない?」と声を掛けたのは25年以上前のこと。一度は「野球はやらへん」と断られたが、友達を誘って入団してきたのが岡田貴弘少年だった。
今もグラウンドに立ち、「おばちゃん」と親しまれる棚原さんにとって、忘れられない思い出がある。
打撃投手を務めた棚原さんの右太ももに、当時小学6年生だったT-岡田の打球が直撃。膝まで大きく腫れあがった。
長一さんには「逃げない方が悪い」とたしなめられたが、1週間後に同じ目にあった長一さんは「あれは、逃げられへん」。打球の強さと速さは、そのころからT-岡田の代名詞だった。
「始球式なので、今日は打ってこなかったのでよかったです。体が大きく、本塁打は33本。内角球をファウルせずに打つことができ、左中間への二塁打が多かった。教えたわけでもないのにミットさばきもうまく、この子ならプロに行けるのではと思いました」という。
指導するチームは勝利至上主義でもなく、将来のプロ野球選手を目指す強豪チームでもない。礼儀正しく、友情を大切にし、野球の楽しさも学ぶという方針だが、そんな中でT-岡田はひと際、輝いていた。
唯一の気がかりは、「すごく気が優しい」という性格。やんちゃの多かった同期生約20人で、「いたずらをする選手の中で、岡田の名前だけは聞かなかった」そうだ。
「私にとって宝物のような存在」
実は、棚原さんの始球式登板は諸事情で1度、延期になっていた。当初の日程なら、T-岡田は脚の故障などで二軍で調整しており、小学生以来の“対戦”は実現しなかった。
「会うのは約3年ぶりですが、試合はいつも気にしています。出場していない時は、ケガをしている。みんな期待しているので、長く現役を続けてほしい」と、近年は故障に苦しむT-岡田を気遣った。
一方のT-岡田は「おばちゃんに誘われたことがきっかけで野球を始め、僕にとって大切な恩人の一人。そんなおばちゃんとこういった舞台で再会するとは思っていなかったので、懐かしい気持ちになると同時に、素直に嬉しかった」と感激。
「今後もおばちゃんにしっかりと成長した姿を見せられるように頑張っていきたい」と、さらなる飛躍を誓っていた。
今も、朝から夕方までの練習中、座ることがないという82歳。元気の秘訣を尋ねると「子供たちのおかげです。子供たちから元気をもらい、その元気を子供たちに返しています」と即答。「しんどい(疲れた)と言ったことはない」という。
「しんどいと思うのは、次の行動を疲れたまま継続してやっているから。新たな気持ちで取り組めば、しんどいとは思いませんよ。しんどいなんて思っていたら、時間がもったいないですよ」
棚原さんが「私にとって宝物のような存在」というT-岡田は、7回二死一塁の反撃機に代打で登場。二飛に倒れ、恩師の前で活躍する姿を見せることは出来なかった。
しかし、野球を始めた原点に戻り、「おばちゃん」からきっとパワーをもらったはずだ。
取材・文=北野正樹(きたの・まさき)