組織野球を展開した広岡達朗
称賛と批判、喝采と罵声。勝負の世界は常にコインの裏表だ。成績が上がっている時は天国でも、ひとたび下降線に陥ると地獄を味わう。だが、球界の歴史をひも解いてもこの人ほど両極端を行き来した野球人はいないだろう。広岡達朗である。
ソフトバンク・ホークスを率いて就任1年目から日本一に駆け上がった工藤公康の恩師は広岡である。西武に入団したルーキーイヤーから一軍に抜擢。その工藤が広岡流管理野球に度肝を抜かれた。禁酒、禁煙、禁麻雀は未成年だから当然として、食事では白米より玄米の励行に野球選手の定番でもある肉の大量摂取まで御法度。グラウンド上では口うるさいほど基本の徹底を課す。さらにユニフォームを脱いでも管理されるのだからたまったものではない。もともと、前身の西鉄ライオンズ時代から放任主義の組織だったのが1982年に広岡が監督に就任すると180度の方針変更。ベテランを中心に不満もたまったが、結果はいきなり日本一。以来、今日まで工藤はストイックな選手生活を送り、ソフトバンクでは彼なりの心配り、目配りを加えながらも広岡流の組織野球を下敷きにして栄冠を手に入れたのだ。
本稿の主役である広岡に話を戻す。ともかく、歩んできた道が半端ではない。東京六大学の花形スターとして巨人に入団するといきなり新人王。長嶋がやって来るまでは花形スターだった。しかし、時の監督・川上哲治と何度かぶつかり現役を引退。その後、広島、ヤクルトのコーチを務め、77年に同球団の監督に昇格すると弱小チームを2年目には日本一軍団に仕立て上げた。ところが、翌年にはフロントと衝突して退団。そして西武でも手腕を発揮して王国を築きあげるが85年にはまたも球団批判などで現場を去って行った。もうひとつ付け加えると10年後、ロッテで球界初のゼネラルマネージャー(GM)として改革に乗り出すが翌年には自らが招請したバレンタイン監督と意思の疎通を欠き解任される。栄光と挫折。まるでジェットコースターのような人生である。
優勝請負人でありながら歯に衣着せぬ一言居士。選手の体の手入れからウェートトレの重要性にフロントと現場の組織の在り方まで、広岡の発言は今では当たり前の正論が多い。西武を去った88年には「日米ベースボール・サミット」という画期的な催しも開催している。日米の野球関係者がプロアマの垣根を越えて一堂に集結。指導法や米国流野球経営、さらには当時社会人野球の選手だった野茂英雄や古田敦也らが参加した野球教室などを3年間にわたり行った。
後にメジャーリーガーとなる野茂に大きな影響を及ぼしている。時代が広岡に追いついていなかったのか?はたまた物言いが過激に映ったのか?
こんな信念の人・広岡にも唯一の汚点?が西武時代にある。最後の監督となる85年のこと。シーズン終盤から体調不良で休養を余儀なくされリーグ優勝の瞬間はヘッドコーチの森晶祇が代行した。病名は「痛風」だった。同病と言えば美食や栄養過多が主因とされる。選手に厳しい食事管理を説きながらこのあり様、江夏豊などは「あの人は言っている事とやっている事が違う」と日頃の鬱憤をぶつけたものだ。どこまでも球界に波紋を残し、話題を提供し続けた広岡らしい散り際だった。だが、本人の名誉のために付け加えるなら前述の江夏や東尾修、田淵幸一ら球史を彩る大選手も監督・広岡達朗の手腕に関しては「素晴らしい」と認めている。どこかで非難、批判を浴びても卓越した指揮官としての輝きが色褪せることはない。
文=荒川和夫(あらかわ・かずお)