コラム

元祖“怪物”…江川卓が残した数々の伝説

元祖・怪物といえばこの人


 “平成の怪物”と呼ばれて旋風を巻き起こした松坂大輔。その元祖とも言える“怪物”は江川卓だった。

 高校時代の江川の投球は、「160キロは出ていた」という証言もある。

 その快速球は、高校生レベルでは打てないと言われた。しかし、江川が甲子園で優勝したことはなかった…。

 栃木・作新学院高に在学していた時の江川の快投記録は枚挙にいとまがない。

 高校2年の夏、栃木県予選では2回戦でノーヒットノーランを達成。さらに3回戦の石橋戦では完全試合、準々決勝でもノーヒットノーランと、27回を投げて失点0、奪三振は47を記録した。

 準決勝の小山戦も10回までノーヒットノーランだったが、11回にサヨナラスクイズを決められ、甲子園出場はならなかった。


凄まじかった甲子園の江川卓


 その悔しさを晴らすべく、秋の県大会、そして関東大会を無失点で優勝。新チーム結成以来、23戦全勝。113回無失点という驚異的な投球で勝ち抜き、1973年春の選抜大会出場を決めた。

 この春のセンバツは「江川のための大会」とも言われた。

 1回戦は北陽高との対戦。西の優勝候補だったが、初回から江川は全開。1球もバットに当てさせず、三者三振に斬って取る完ぺきな立ち上がりを見せる。

 5番打者の有田二三男(のちに近鉄に入団)が初めてファウルチップでバットに当てると、5万人の大観衆から拍手が巻き起こったほど、江川の投球は凄まじかった。

 結局、19三振で完封勝利。続く2回戦の小倉南戦でも7回10三振。準々決勝の今治西戦では20三振を記録。3試合で49奪三振と圧倒的なパワーでねじ伏せた。

 準決勝の広島商戦は11三振を奪ったが、ダブルスチールからエラーで決勝点を与え、0-1で敗れた。この60奪三振は、今でも選抜大会の記録である。

 3年時、最後の夏の甲子園は、1回戦で23奪三振を記録し、延長15回のサヨナラ勝ち。しかし、2回戦の銚子商戦では降りしきる雨の中で制球を乱し、押し出しサヨナラ負け。江川の甲子園が終わった。優勝はできなかった。

 だが、その記録はすさまじい。甲子園通算成績は、6試合に登板して4勝2敗。奪三振92(奪三振率14.0)で防御率は驚異の0.46…。この奪三振率14.0というのは、歴代の甲子園投手の中でダントツの数字である。


残した数々の伝説...


 江川にまつわる伝説、逸話というのは未だに語り継がれ、その数も豊富だ。

 栃木県予選では、本気で27奪三振の完全試合を狙っていたというが、「バントで転がすバッターがいてできなかった」と嘆いていたという。さらに、相手の3番・4番バッターに対して「2ストライク後に、ど真ん中に投げるから打ってみろ」と勝負して三振を奪っていたという逸話や、高校時代の県予選では、バントされたボールがレフト前まで転がったというエピソードまで。

 また、広島商業の達川光男(のちに広島入団)は、「投げる球はクセで見抜いていた。直球かカーブしかなかったわけだしね。ただ、投げる球がわかっていても打てなかったのは江川だけだった」と回想した。

 今では、スピードガンがある時代。あの日本ハムの大谷翔平が160キロを計測したときには、超高校球のピッチャーが現れたと大きな話題になった。

 しかし、大谷の比ではないというのが、当時の関係者。「江川のボールより速いボールを投げる投手は、これまで見たことがない。伝説の投手・沢村栄治の速さはわからないが、江川の出現後は江川が一番速い」と話したという。

 後にプロ入りする際は、「空白の一日」事件など、騒動に巻き込まれた江川。だが、高校時代がピークだったとすれば、プロの江川はおまけみたいなもの。それでも、江川は十分にその存在価値を示したといえる。
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