現役最終年に日本シリーズに登板した男
真っ赤に染まる週末のマツダスタジアム。
2016年日本シリーズは広島の2連勝で幕を開けた。一気に王手を狙い、日本ハムのホーム札幌ドームに移動してからの第3戦では黒田博樹が先発予定。メジャーチームからの巨額のオファーを蹴り、古巣に復帰して二桁勝利を挙げ、今季はチームを25年ぶりの優勝に導くと10月18日に引退表明。まるで映画のような出来過ぎたキャリアの集大成は日本シリーズの大舞台だ。
日本球界には過去にも、現役最終年に二桁勝利を挙げ、引退試合が日本シリーズ登板という投手が1人だけいた。1987年の江川卓(巨人)である。この年、32歳の江川は26試合で13勝5敗、防御率3.51の好成績。19歳の桑田真澄と先発ローテの中心として回り、王監督4年目の初優勝に大きく貢献。全盛期は過ぎたとは言え、7完投を記録し、8年連続二桁勝利を継続中だった。日本シリーズでは黄金時代を迎えつつあった西武ライオンズと対戦。後楽園球場で行われた第3戦で先発した江川は8回4安打2失点と好投しながらも、ブコビッチと石毛宏典のソロアーチに泣き敗戦投手。結局、このシリーズで巨人は西武に2勝4敗で敗れ、最終戦9回二死の場面でファーストを守る若き日の清原和博(西武)が流した涙は今でも語り草となっている。
そしてシリーズ終了後、スポーツ新聞に「江川引退」をスクープされると、11月12日に怪物投手は突然の引退会見をすることになる。引退を決意したのは、このシーズン終盤の9月20日広島戦(広島市民球場)で法政大学の後輩でもある小早川毅彦に対して直球勝負にこだわり、サヨナラアーチを浴びた一戦。背番号30は試合後に号泣し、直球の力が落ちたことを思い知り自身の野球人生の終わりを悟ったという。さらに数年前から右肩痛に悩み「右肩甲骨の裏に針を打つと来年は投げられなくなる禁断のツボに針を打った」と会見で江川は目を潤ませながら明かした(のちに鍼灸関係者から抗議を受け謝罪)。
入団の経緯と圧倒的な実力から、数多くのファンと同時に多くのアンチを持つ男。当時のスポーツ新聞は1面に江川を持って来たら売れるとまで言われたものだ。作新学院時代の怪物伝説から始まり、法政大では東京六大学リーグ史上最高の投手と称され、ドラフト破りの「空白の1日騒動」で物議を醸した。『東京物語』という奥田英朗が書いた1979年を舞台にした小説の中で、普段は野球に興味を示さない女の子がこんな台詞を言うシーンがある。
「わたし江川って凄いと思うな。日本中を敵にまわして、へこたれないんだもん」
巨人入団3年目の81年には20勝を挙げ投手五冠とMVPを獲得。84年オールスター第3戦ではパリーグを代表する強打者たちから8連続奪三振を奪い、引退前年の86年も16勝6敗、防御率2.69というエース級の数字を残している。それが13勝を挙げた32歳のシーズン限りでまさかの引退表明。現在の球界で言ったら、84年生まれの岸孝之(西武)や長野久義(巨人)がこのオフで突然引退するようなものだ。
江川は引退から20年以上経って、ライバル掛布雅之との対談集『巨人-阪神論』(角川書店)の中で、自ら87年の引退の真相を語っている。翌88年はプロ10年目の節目のシーズンで、その年から開場する東京ドームで投げたい気持ちは当然あった。だが「来年やったら、勝ち星が一桁になるなと思ってね。それがもう嫌で、一桁になるくらいならやりたくないなと。それで9年で辞めたんです」と当時の心境を振り返る。
「最終的には一桁勝利の自分を許せなかった」と32歳の若さで現役を退いた江川卓。そこには、先日の引退会見で「今まで先発して完投してというスタイルでやってきて、9回を投げられない体になった」と自らのこだわりを貫いた41歳の黒田博樹と共通するものがある。
生きた時代も、歩んだ野球人生も異なりながらも「引き際の美学」にこだわった男たち。最後の二桁勝利、そして日本シリーズでの引退登板。
果たして、黒田博樹のキャリアにはどんなラストシーンが見られるだろうか?
文=中溝康隆(なかみぞ・やすたか)