ニュース 2023.04.20. 18:43

平良海馬(埼玉西武)の少年時代|小さなプロ野球選手の履歴書

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WBCでは吉田選手、近藤選手、甲斐選手、宮城投手など、体の小さな選手達が活躍を見せてくれました。そんな身体の小さな選手たちの野球ヒストリーを辿る『小さなプロ野球選手の履歴書』という本があります。この本のなかから、埼玉西武・平良海馬投手(173cm)を少年野球時代に指導した高良真助さんにお話伺った一部を抜粋して紹介します。




【〝体が小さいだけ〞で評価しない 将来を見据え、その子の良さを大人が責任を持って探す】


■動体視力の高い5年生キャッチャー


周囲にはプロに行けるとはまったく思われていたなかった平良少年だが、ソフトボール投げでは65メートルを投げて学校で一番だったというから、少なからずその片鱗は覗かせていたとも言えなくはない。
「でも当時の石垣島には、80メートルくらい投げるもっと肩の強い子もたくさんいたんですよ。だから海馬の肩の強さは『まぁまぁ』という感じでした」
「それに……」と高良さんは付け加える。
「海馬のひとつ上に新里光平(八重山高校‐青森大学‐エナジック硬式野球部)という身長が165センチくらいあって、7イニングで三振を19個をとったりするような、いわゆる『スーパー小学生』と言われるような子がいて、その子のほうが目立っていましたね。海馬は野球をよく知っていましたけど、そんなに目立つわけではなくて、野球の上手さでいうと普通よりちょっと上という感じでした」

島の子どもたちの遊びといえば、1年中海で泳ぐか釣りをすることが多いが、電車が通っていないため移動はいつも徒歩か自転車となる。
「身長はぼくも含めてみんな小さいんですよ。でもそんな環境で育ってきているせいか下半身がしっかりしていたり、肩が強かったり、足が速かったり、という子が多いんです。海馬も当時の身長は150センチくらいで全然大きくなくて、でも体型はぽっちゃりでがっちりしていて、そういう子の代表例のような気がしますね。足は遅かったですけどね(笑)」

平良少年のポジションはキャッチャー。しかし、体格や「まぁまぁな肩」を理由にキャッチャーになったわけでない。
「動体視力が良かったんです。だからキャッチングにも長けていて、新里の小学生離れしたボールを捕れるのはチームに海馬のみ。5年生の時からキャッチャーをしていました。盗塁も結構刺していましたね。右投げ左打ちでしたけど、動体視力が良かったのでバッティングも上手でしたよ」

■ノーコンでピッチャー失格


ピッチャー新里がバシバシ三振を取る。ワイルドピッチになりそうなボールも動体視力の優れたキャッチャー平良少年がしっかり止めた。普通であれば三振振り逃げになるようなケースも平良少年が何度も防いだ。二人の活躍もあり地区大会はすべて優勝。しかし初めて出場した県大会では春、夏共に初戦で敗れた。
「春も夏も1点差で負けました。でも、うちに勝ったチームがどちらもそのまま優勝しました」というから、当時のチームの強さが窺える。

そんなチームは当時、月曜以外の平日にも練習をしていたという。
「大会前は月曜も練習をしていました。あの頃は石垣島を勝ち上がることがやっとのチームで、全国大会を目指せるレベルではありませんでした。だから怒鳴ってまで練習をやるようなこともなく、毎日練習をしてはいましたけど厳しさは全然なくて、良くも悪くも遊びの延長で楽しくやっていました」

それでも海馬少年が6年の夏には県大会でベスト8まで勝ち進んだ。
「その時の県大会が石垣島開催だったので、島で3位でしたけど開催枠として出場することができたんです。海馬は4番でキャッチャー、70メートルを越すスタンドインのホームランを二打席連続で打ったのを覚えています」

聞いている限りでは海馬少年も十分に『スーパー小学生』だったようにも思えるが、それでも打者として大成する未来は想像できなかったという。
「うーん、やっぱり体が大きいわけでもないですし、足が速くなかったですからね。打つほうで将来プロというのも想像できなかったですね」

ならばピッチャーとしての才能の片鱗は窺えたのだろうか?
「ボールは速かったですけど、10球投げたら8球はボールという感じでしたから、ピッチャーはさせられなかったですね(笑)。本人はもしかしたらやりたかったのかもしれないですけど、そんなに意思表示をするタイプでもなかったですから。試合ではキャッチャー、たまにサードをやったり、という感じでした」

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