「僕、水泳は凄い速かったんですよホントに」
自分の兄が熊本県のクロールで優勝して高校総体に出てるんですけど、小さい頃にその兄より速かったですから。目の前の男はそう言って笑った。小3までは水泳、4年生からチームに入れるんで野球をやると決めていた。父親は地元で有名な俊足野球選手。高校時代は今季までロッテ監督を務めた伊東勤と甲子園出場を懸けしのぎを削ったという。そういう環境で育ち、熊本のテレビはジャイアンツ戦中継ばかりだったので巨人帽子を被って遊んでいた少年は、やがてプロ野球選手となり、先日28歳の若さで引退を表明した。
週末、「巨人・藤村大介、現役引退」のニュースを知り、2年前のジャイアンツ球場で行ったインタビュー録音を聞き返した。当時、左太もも裏の肉離れのリハビリ中で実戦復帰を目指していた藤村は、「今年(15年)はチャンス…だったじゃないですか? 村田さん、片岡さん、寺内さんがケガしていて、その間に年下の立岡や吉川大幾がチャンスを掴む。自分は何やってんだ、と」悔しさを滲ませながらも、もうすぐ復帰できますからと前向きに語ってくれた。
今思えば、その頃の藤村は順調すぎた野球人生で味わう初めての大きな挫折の時期だったのかもしれない。
名門・熊本工業高校では俊足のトップバッターとして甲子園ベスト4へとチームを導き、死にたいくらい憧れた巨人07年高校生ドラフト1位指名でプロ入り。2軍では強化指定選手で育てられ、4年目の2011年5月に1軍デビュー。正二塁手として119試合に出場するといきなり28盗塁でタイトル獲得。小さい頃の作文で「ぼくの夢はドラフト1位になって巨人に入団することだ。そして盗塁王になりたい」と書いた少年は、わずか22歳でその夢を実現させてしまったわけだ。平成生まれ初めての1軍タイトル獲得者。同学年で同じ89年生まれの菅野智之や小林誠司は当時まだ大学4年生である。いわば藤村は世代のトップランナーだった。
22歳、多くの同級生たちは社会に出てすらいない。これから人生の目標を達成する準備期間とも言える年齢で、夢をかなえてしまった男。それは羨ましくもあり、大変だろうなとも思う。その頃、巨人期待の若手と言ったら、投の宮国椋丞、打の藤村大介の二枚看板。2012年6月、東京ドーム来場者配布のプレーヤーズプログラムでは宮国椋丞とともに表紙に抜擢され、1冊丸ごと巨人特集のある野球雑誌では阿部慎之助や内海哲也らを抑え、藤村が選手インタビューのトップ記事を飾っている。今となっては皮肉にも聞こえるが「生え抜きの巨人、育成の巨人」の象徴として。
だが、13年オフに片岡治大や井端弘和といった実績のある二塁手が加入し、藤村は徐々に出場機会を失い、昨秋にはドラフト1位ルーキー吉川尚輝に背番号0を渡し「57」で再出発するも今季の1軍出場はゼロ。プロ野球はシビアな世界だ。同じポジションで左打ち俊足と特徴もろ被りの新人にその座を譲る。もしも、会社で新入社員に、自分の仕事とデスクをそのまま譲れと上から命じられたら俺なら自信を喪失するだろう。
もしもあの時、例えば2013年あたりでもうひと踏ん張りして二塁レギュラーを確保できていれば、1軍に故障者が続出した15年序盤の怪我さえなければ…とかタラレバを言い出したらきりがない。
今季2軍では104試合、打率.281、10盗塁という成績を見てもまだまだできる。だけど、2年前の時点でいっそ新天地でチャレンジしたいと思ってしまうことはないのか? という答えにくい質問にも「他球団もレベル高いんで。他球団だったら出れるとかそんな甘いもんじゃないと思います、僕は」と断言していた藤村は、巨人の10年間でプロ生活を終えることを決断した。
28歳、野球選手としてはひとまず区切りをつけた形だが、まだまだ先は長い。ほとんどの人にとって20代後半は心の曲がり角だ。理想じゃ飯は食えねぇなんつって、何かを諦めて、同時に別の何かを探そうとする。あえてクサい書き方をすると、その瞬間、青春が終わり、人生が始まるのである。
これから始まる、藤村大介の第二の人生の幸運を祈りたい。
文=中溝康隆(なかみぞ・やすたか)
自分の兄が熊本県のクロールで優勝して高校総体に出てるんですけど、小さい頃にその兄より速かったですから。目の前の男はそう言って笑った。小3までは水泳、4年生からチームに入れるんで野球をやると決めていた。父親は地元で有名な俊足野球選手。高校時代は今季までロッテ監督を務めた伊東勤と甲子園出場を懸けしのぎを削ったという。そういう環境で育ち、熊本のテレビはジャイアンツ戦中継ばかりだったので巨人帽子を被って遊んでいた少年は、やがてプロ野球選手となり、先日28歳の若さで引退を表明した。
週末、「巨人・藤村大介、現役引退」のニュースを知り、2年前のジャイアンツ球場で行ったインタビュー録音を聞き返した。当時、左太もも裏の肉離れのリハビリ中で実戦復帰を目指していた藤村は、「今年(15年)はチャンス…だったじゃないですか? 村田さん、片岡さん、寺内さんがケガしていて、その間に年下の立岡や吉川大幾がチャンスを掴む。自分は何やってんだ、と」悔しさを滲ませながらも、もうすぐ復帰できますからと前向きに語ってくれた。
今思えば、その頃の藤村は順調すぎた野球人生で味わう初めての大きな挫折の時期だったのかもしれない。
名門・熊本工業高校では俊足のトップバッターとして甲子園ベスト4へとチームを導き、死にたいくらい憧れた巨人07年高校生ドラフト1位指名でプロ入り。2軍では強化指定選手で育てられ、4年目の2011年5月に1軍デビュー。正二塁手として119試合に出場するといきなり28盗塁でタイトル獲得。小さい頃の作文で「ぼくの夢はドラフト1位になって巨人に入団することだ。そして盗塁王になりたい」と書いた少年は、わずか22歳でその夢を実現させてしまったわけだ。平成生まれ初めての1軍タイトル獲得者。同学年で同じ89年生まれの菅野智之や小林誠司は当時まだ大学4年生である。いわば藤村は世代のトップランナーだった。
22歳、多くの同級生たちは社会に出てすらいない。これから人生の目標を達成する準備期間とも言える年齢で、夢をかなえてしまった男。それは羨ましくもあり、大変だろうなとも思う。その頃、巨人期待の若手と言ったら、投の宮国椋丞、打の藤村大介の二枚看板。2012年6月、東京ドーム来場者配布のプレーヤーズプログラムでは宮国椋丞とともに表紙に抜擢され、1冊丸ごと巨人特集のある野球雑誌では阿部慎之助や内海哲也らを抑え、藤村が選手インタビューのトップ記事を飾っている。今となっては皮肉にも聞こえるが「生え抜きの巨人、育成の巨人」の象徴として。
だが、13年オフに片岡治大や井端弘和といった実績のある二塁手が加入し、藤村は徐々に出場機会を失い、昨秋にはドラフト1位ルーキー吉川尚輝に背番号0を渡し「57」で再出発するも今季の1軍出場はゼロ。プロ野球はシビアな世界だ。同じポジションで左打ち俊足と特徴もろ被りの新人にその座を譲る。もしも、会社で新入社員に、自分の仕事とデスクをそのまま譲れと上から命じられたら俺なら自信を喪失するだろう。
もしもあの時、例えば2013年あたりでもうひと踏ん張りして二塁レギュラーを確保できていれば、1軍に故障者が続出した15年序盤の怪我さえなければ…とかタラレバを言い出したらきりがない。
今季2軍では104試合、打率.281、10盗塁という成績を見てもまだまだできる。だけど、2年前の時点でいっそ新天地でチャレンジしたいと思ってしまうことはないのか? という答えにくい質問にも「他球団もレベル高いんで。他球団だったら出れるとかそんな甘いもんじゃないと思います、僕は」と断言していた藤村は、巨人の10年間でプロ生活を終えることを決断した。
28歳、野球選手としてはひとまず区切りをつけた形だが、まだまだ先は長い。ほとんどの人にとって20代後半は心の曲がり角だ。理想じゃ飯は食えねぇなんつって、何かを諦めて、同時に別の何かを探そうとする。あえてクサい書き方をすると、その瞬間、青春が終わり、人生が始まるのである。
これから始まる、藤村大介の第二の人生の幸運を祈りたい。
文=中溝康隆(なかみぞ・やすたか)