白球つれづれ2019~第28回・ヤクルトOB戦と名将・野村克也
今年のオールスターゲームは例年にも増して盛り上がった。第1戦は西武・森友哉が規格外のフルスイングで2年連続のMVPを獲得すれば、第2戦では阪神・近本光司がサイクル安打の快挙達成で本拠地・甲子園のファンは大喜び。大腸がんから復活したばかりの僚友・原口文仁の2戦連続アーチも感動を呼んだ。
そんな現役たちの夢の競演に先立って11日、神宮球場で行われたのがヤクルトスワローズのOB戦、こちらもファンにとっては忘れ得ぬ夢の一夜となった。
球場正面にはスワローズを支えてきたレジェンドたちの垂れ幕がズラリと並ぶ。野村克也、若松勉、古田敦也、真中満ら歴代監督だけでなく、松岡弘、安田猛、川崎憲次郎や大矢明彦、池山隆寛、宮本慎也らの名が球団の歴史を思い出させた。
1969年に前身のサンケイ・アトムズからヤクルトが経営に乗り出して今年が区切りの50周年。球場に隣接する室内練習場も「スワローズ・ミュージアム」に衣替えして懐かしの名場面を振り返る場となった。
ヤクルトと言えば、その昔は弱小球団の代名詞のように言われたものだ。初代オーナーは松園尚己。ウソか?まことか?巨人戦に敗戦が続くと「あまり勝ったらヤクルトの不買運動につながってしまう」とうそぶいたとか。70年には16連敗を喫するなど最下位争いの常連だった。一方で選手の面倒見の良さにも定評があり、現役引退後は球団職員として雇用したり、故障続きの選手でも他球団ならとっくに解雇リストに上がるケースでも簡単にクビにはしない。家族的な集団は時に「ぬるま湯体質」として批判を浴びることも多かった。
チームを変えたふたりの名将
そんな「お荷物球団」を立て直した、ふたりの名将がいる。ひとりは77年に監督に就任した広岡達朗だ。前年に荒川博の途中退団に伴って代理監督を務めたが、本格的に指揮を執ると、徹底した基本練習の反復と管理野球で瞬くうちにチームの体質まで改善、78年には初のリーグ優勝と日本一をもたらす。ところが広岡はチーム運営を巡りフロントと衝突して、直後に退団。ここから再び冬の時代が続いたが、それを立て直したのが野村克也である。
ご存知「ID野球」を掲げて徹底したデータ分析とち密な野球を作り上げる。野村は当時のチーム作りを回想して、「まず、センターラインの強化に腐心した」と語っている。捕手には強肩強打の古田を自らの分身として、中堅には捕手だった飯田哲也の強肩俊足を買ってコンバート。さらに岡林洋一、伊藤智仁、川崎らの若手投手を育てて王国を作り上げている。今や、リーグ優勝7度、日本一5度の実績は、ふたりの名将抜きには語れない。
和気あいあいの中で進んだOB戦。野村と若松がそれぞれの監督として指揮を執ったが、球場が最も沸いたのは4回の野村軍の攻撃だった。古田ヘッドコーチが「代打・野村」を告げる。84歳になった老将は近年、腰の痛みに悩まされてこの夜も車椅子でのベンチ入りとなったが、21年ぶりに袖を通すヤクルトのユニフォームに元気をもらったのだろう。腰のあたりを古田や真中らの愛弟子に支えられながら打席に立つと2球目を空振り。ここでお役御免となったが、千両役者ぶりを見せつけた。
体は思うように動かなくても、評論家として鳴らす口の方は絶好調だ。「最下位とは何をやっているんだ。私の残された人生、こんなに寂しいことはない。一日も早く脱出して優勝戦線に加わってください」。これには現監督の小川淳司も宮本ヘッドも耳が痛かったに違いない。
球宴後、後半戦スタートも巨人に競り負けて大型借金に苦しむ。昨年は2位に躍進、今季もシーズン序盤は首位をうかがう位置につけていたくらいだから、力がないわけではない。野村流の「喝!」に今後、どう応えていくか、50周年のメモリアルイヤーを、このまま終わらせるわけにはいかない。
文=荒川和夫(あらかわ・かずお)