オリックス・東晃平が4月4日の西武戦で勝利投手になり、2022年の1軍デビューから無傷の先発8連勝を達成した。次の登板試合となった同12日の日本ハム戦では、7回を1安打1失点(自責点ゼロ)の好投にもかかわらず、不運にも敗戦投手になり、連勝記録も「8」でストップした。そして、東以前にもデビュー以来勝ちつづけた男たちが存在した。
デビュー以来、すべて先発で日本人投手歴代トップの10連勝を記録したのが、1942年の巨人・藤本英雄だ。
シーズン中の9月25日に巨人に入団した藤本は、同27日の大洋戦でプロ初先発初登板。調整不足もあって、野口明、佐藤武夫に被弾するなど、7回を3失点ながら、8回から須田博(ヴィクトル・スタルヒン=戦時中のため、日本人名を使用)の救援をあおぎ、プロ初勝利を挙げた。
その後、1戦ごとに調子を上げ、3試合目の先発となった10月6日の朝日軍戦で2勝目を4安打完封で飾り、シーズン最終登板となった11月15日の朝日軍戦まで無傷の10連勝を記録した。
翌43年4月4日の開幕2戦目、朝日軍戦で、6回3失点(自責1)で負け投手になり、連勝は「10」で途切れた。
リリーフでの勝利も含めてデビューから13連勝を記録したのが、巨人・堀内恒夫だ。
1966年にドラフト1位で巨人入りした堀内は、同年4月14日の中日戦でプロ初先発初登板。速球と大きなカーブを武器に、6回2失点で見事初勝利を挙げた。その後は1-0の完封勝利を挙げた5月30日の大洋戦から6月22日のサンケイ戦(4回に失点)まで44イニング連続無失点を記録するなど、リリーフでの2勝も含めて開幕13連勝を達成。本人も「直球とカーブしかないのに、打たれる気がしない。マウンドに上がるのが楽しくて仕方がなかった」と回想している。
7月31日の広島戦で4回2失点KOされ、連勝ストップも、同年は16勝2敗、防御率1.39で新人王、勝率1位、最優秀防御率、沢村賞を手にした。
前出の堀内の記録を更新したのが、ソフトバンク時代のリック・バンデンハークだ。
2015年にソフトバンク入りしたバンデンハークは、来日初先発初登板となった6月14日の広島戦で、6回2失点で勝利投手になると、その後も勝ちつづけ、9勝0敗でシーズンを終えた。
そして、翌16年も開幕から4連勝で50年前の堀内の記録に並ぶと、5月10日のロッテ戦で8回を4安打1失点に抑え、前人未到のデビューからすべて先発で14連勝を達成した。
バンデンハークは白星のつかなかった8試合中3試合までがリードを許しての降板だったが、いずれも味方が9回に追いつき、黒星が消えるという幸運にも恵まれた。
それだけに、「自分の名前が残るのはうれしいことだが、1人ではできないこと。チームの記録だと思っているし、このチームの一員になれたことをありがたく思う」とチームメイトへの感謝を忘れなかった。
だが、5月17日の日本ハム戦では、初回に大谷翔平にバックスクリーン左へ2ランを浴びるなど、5回7失点と打ち込まれ、連勝も「14」でストップした。
いずれもリリーフでの白星ながら、プロ初勝利から無傷の8連勝を記録し、通算164試合連続不敗記録を打ち立てたのが、巨人・高木京介だ。
2012年にドラフト4位で巨人入りした高木は、7月7日の阪神戦でプロ初勝利を挙げるなど、1年目は34試合に登板し、2勝1セーブを記録。2年目以降も中継ぎの柱として活躍し、15年5月14日の広島戦で初登板から117試合連続無敗のNPB記録を樹立した。
16年に野球賭博に関与していたことが明らかになり、1年間の失格処分を受けたが、復帰後の19年6月12日の西武戦でデビューから無傷の8連勝を記録。それから2日後の同14日、日本ハム戦でリリーフに失敗し、連続無敗記録は「164」で途切れたものの、今でも公文克彦(日本ハムなど)の「182」に次ぐ歴代2位だ。
最後は、登板1ヵ月で無傷の6連勝を記録したまま、帰国した異色の助っ人を紹介する。
1948年にレッドソックスと契約し、51年にメジャー昇格をはたしたレオ・カイリーは、同年に7勝7敗を記録したが、朝鮮戦争勃発で兵役に就き、横須賀基地に配属されていた。
この現役大リーガーに目をつけたのが、投手不足に悩んでいた毎日だった。「休日とナイターのみ出場」という条件でアルバイトの選手契約を結び、53年8月8日の西鉄戦で、6回からリリーフとして来日初登板が実現した。
練習不足のカイリーは、8‐5の8回に塚本悦郎、中西太に本塁打を浴びて同点に追いつかれるが、その裏、味方打線が2点を勝ち越し、白星をプレゼント。カイリーもその後は本来の調子を取り戻し、8月11日の東映戦で完投勝利、同30日の東急戦では来日初完封を演じるなど、6連勝を記録した。
さらに打っても19打数10安打、打率.526をマークしたことから、1試合代打で出場している。
だが、朝鮮戦争が休戦になると、9月3日に除隊命令が出て、退団帰国。メジャーでは通算26勝27敗29セーブを記録した。
文=久保田龍雄(くぼた・たつお)
日本人投手歴代トップは10連勝
デビュー以来、すべて先発で日本人投手歴代トップの10連勝を記録したのが、1942年の巨人・藤本英雄だ。
シーズン中の9月25日に巨人に入団した藤本は、同27日の大洋戦でプロ初先発初登板。調整不足もあって、野口明、佐藤武夫に被弾するなど、7回を3失点ながら、8回から須田博(ヴィクトル・スタルヒン=戦時中のため、日本人名を使用)の救援をあおぎ、プロ初勝利を挙げた。
その後、1戦ごとに調子を上げ、3試合目の先発となった10月6日の朝日軍戦で2勝目を4安打完封で飾り、シーズン最終登板となった11月15日の朝日軍戦まで無傷の10連勝を記録した。
翌43年4月4日の開幕2戦目、朝日軍戦で、6回3失点(自責1)で負け投手になり、連勝は「10」で途切れた。
リリーフでの勝利も含めてデビューから13連勝を記録したのが、巨人・堀内恒夫だ。
1966年にドラフト1位で巨人入りした堀内は、同年4月14日の中日戦でプロ初先発初登板。速球と大きなカーブを武器に、6回2失点で見事初勝利を挙げた。その後は1-0の完封勝利を挙げた5月30日の大洋戦から6月22日のサンケイ戦(4回に失点)まで44イニング連続無失点を記録するなど、リリーフでの2勝も含めて開幕13連勝を達成。本人も「直球とカーブしかないのに、打たれる気がしない。マウンドに上がるのが楽しくて仕方がなかった」と回想している。
7月31日の広島戦で4回2失点KOされ、連勝ストップも、同年は16勝2敗、防御率1.39で新人王、勝率1位、最優秀防御率、沢村賞を手にした。
前出の堀内の記録を更新したのが、ソフトバンク時代のリック・バンデンハークだ。
2015年にソフトバンク入りしたバンデンハークは、来日初先発初登板となった6月14日の広島戦で、6回2失点で勝利投手になると、その後も勝ちつづけ、9勝0敗でシーズンを終えた。
そして、翌16年も開幕から4連勝で50年前の堀内の記録に並ぶと、5月10日のロッテ戦で8回を4安打1失点に抑え、前人未到のデビューからすべて先発で14連勝を達成した。
バンデンハークは白星のつかなかった8試合中3試合までがリードを許しての降板だったが、いずれも味方が9回に追いつき、黒星が消えるという幸運にも恵まれた。
それだけに、「自分の名前が残るのはうれしいことだが、1人ではできないこと。チームの記録だと思っているし、このチームの一員になれたことをありがたく思う」とチームメイトへの感謝を忘れなかった。
だが、5月17日の日本ハム戦では、初回に大谷翔平にバックスクリーン左へ2ランを浴びるなど、5回7失点と打ち込まれ、連勝も「14」でストップした。
通算「164試合」連続不敗記録
いずれもリリーフでの白星ながら、プロ初勝利から無傷の8連勝を記録し、通算164試合連続不敗記録を打ち立てたのが、巨人・高木京介だ。
2012年にドラフト4位で巨人入りした高木は、7月7日の阪神戦でプロ初勝利を挙げるなど、1年目は34試合に登板し、2勝1セーブを記録。2年目以降も中継ぎの柱として活躍し、15年5月14日の広島戦で初登板から117試合連続無敗のNPB記録を樹立した。
16年に野球賭博に関与していたことが明らかになり、1年間の失格処分を受けたが、復帰後の19年6月12日の西武戦でデビューから無傷の8連勝を記録。それから2日後の同14日、日本ハム戦でリリーフに失敗し、連続無敗記録は「164」で途切れたものの、今でも公文克彦(日本ハムなど)の「182」に次ぐ歴代2位だ。
最後は、登板1ヵ月で無傷の6連勝を記録したまま、帰国した異色の助っ人を紹介する。
1948年にレッドソックスと契約し、51年にメジャー昇格をはたしたレオ・カイリーは、同年に7勝7敗を記録したが、朝鮮戦争勃発で兵役に就き、横須賀基地に配属されていた。
この現役大リーガーに目をつけたのが、投手不足に悩んでいた毎日だった。「休日とナイターのみ出場」という条件でアルバイトの選手契約を結び、53年8月8日の西鉄戦で、6回からリリーフとして来日初登板が実現した。
練習不足のカイリーは、8‐5の8回に塚本悦郎、中西太に本塁打を浴びて同点に追いつかれるが、その裏、味方打線が2点を勝ち越し、白星をプレゼント。カイリーもその後は本来の調子を取り戻し、8月11日の東映戦で完投勝利、同30日の東急戦では来日初完封を演じるなど、6連勝を記録した。
さらに打っても19打数10安打、打率.526をマークしたことから、1試合代打で出場している。
だが、朝鮮戦争が休戦になると、9月3日に除隊命令が出て、退団帰国。メジャーでは通算26勝27敗29セーブを記録した。
文=久保田龍雄(くぼた・たつお)