ヤクルト・村上宗隆が5月15日の広島戦の8回に矢崎拓也から右中間に今季9号ソロを放ち、プロ7年目でNPB史上115人目の通算200号本塁打を達成した。西武時代の清原和博の24歳10カ月を7カ月も更新する史上最年少の24歳3カ月での快挙。村上以前に年少記録を樹立した選手たちを振り返ってみよう。
まず村上に記録を塗り替えられるまで最年少記録の保持者だった清原は、西武入団7年目、1992年6月26日のオリックス戦の1回二死二塁、伊藤敦規から放った左越え先制2ランが通算200号になった。
同年の清原は開幕から打撃不振に苦しみ、4月23日の時点で打率.152、1本塁打。翌24日のロッテ戦から4番の座を秋山幸二に譲り、3番を打ったが、5月になっても打率1割6分台と調子が上がらず、同19日、21日のオリックス戦ではスタメン落ちの屈辱も味わった。
だが、毎日早出やランニングを続け、必死になって不振からの脱却を目指した末、6月13日の日本ハム戦から4番復帰をはたすと、7試合で4本塁打と復調し、あっという間に通算200号にリーチをかけた。
そして、「今日決めるつもりで試合に臨んだから気合十分でした」という6月26日のオリックス戦、清原は初回の第1打席で伊藤の内角シュートをとらえ、史上62人目の通算200号を達成するとともに、王貞治(巨人)の25歳3カ月を5カ月更新する史上最年少記録を樹立した。
「狙いと違ったけど、体がうまく反応してくれた。王さんの記録を塗り替えられたことがうれしい」と感無量の清原だったが、「200号は通過点だと思うけど、まだこれだけなのかという感じですね」と通算868本塁打の王の4分の1にも満たないことを痛感させられた様子だった。
その後、清原は1996年4月10日の日本ハム戦で史上23人目の通算300号を達成したが、歴代2位(現在は3位)の28歳7カ月で、王の最年少記録(27歳3カ月)を更新することはできなかった。
その王は、1965年9月19日の大洋戦で史上12人目の通算200号を達成。中西太(西鉄)、野村克也(南海)の最年少記録・28歳0カ月を2年9カ月も更新するハイペースだった。
同年の王は自身初の三冠王を目指し、“最後の難関”首位打者を江藤慎一(中日)と争っている最中とあって、首位打者獲りに集中するためにも、「早く200号を打ってしまいたい」と考えていた。だが、9月11日の広島戦で通算199号を記録してから、3試合足踏みが続いていた。
この日も8回まで2打数1安打1三振2四球と待望の一発は出ず、「今日もダメかと思っていた」という。
最終回も3者凡退なら打席が回ってこない状況だったが、国松彰が安打で出塁し、3番・長嶋茂雄がセーフティバント失敗の三直に倒れたあと、二死一塁で5度目の打席が回ってきた。そして、最後の最後でギリギリ回ってきたチャンスを見事にものにし、峰国安のカーブを右翼席上段に運ぶシーズン30号のダメ押し2ラン。
5打数4安打3打点の長嶋とともに勝利のヒーローになった王は「(200号は)だいぶ気になってましたからね。これでバリバリ打てるようになります!」とスッキリした表情になった。
王とともに歴代3位タイの25歳3カ月で通算200号を達成したのが、巨人時代の松井秀喜だ。ただし、王の記録は25歳3カ月30日なので、日数まで含めると、25歳3カ月9日の松井が単独で歴代3位になる。
1999年9月21日の阪神戦、3回一死、初回の第1打席で先制の中越え二塁打を放った松井は、3回一死一塁の第2打席で舩木聖士から「打った瞬間入ると思った」という通算200号の右越え2ラン。さらに1点差に詰め寄られた7回にも、山崎一玄から自己新のシーズン39号となる通算201号を放った。
4打数3安打4打点でチームの勝利に貢献した松井は「今日は理想的だったね。200号も39号もうれしいが、今年は40本以上打ちたいと思っていたんだから」と12試合を残しての“大台リーチ”に満足そうだった。
同年は公約どおり、42本塁打を記録し、プロ7年目で初めて40本の大台に乗せている。
一方、遅いほうの記録では、1975年7月6日の中日戦で外国人初の通算200号を達成した阪神時代のジョージ・アルトマンの42歳3カ月が歴代トップ。続いて楽天時代の松井稼頭央の41歳5カ月(2017年4月22日のソフトバンク戦で達成)が、2番目になる。
松井はメジャーで7年間プレーした結果、達成が大幅に遅れたが、本人はプロ入り当時「一番縁がないと思っていた」本塁打の記録で金字塔を打ち立てたことに特別な感慨を抱き、「200本塁打は非常に大きな数字」と語っている。
歴代3位は古田敦也(ヤクルト)の38歳10カ月。入団以来、NPBに在籍しつづけ、15年目で達成したという意味では、事実上の日本人選手としての最年長記録と言えるかもしれない。
通算200号のメモリアルアーチは、2004年6月29日の横浜戦で9回に土居龍太郎から記録。リーチをかけてから5試合目に飛び出したシーズン12号は、県営宮城球場の左翼場外に消える特大弾となった。「元気に15年間やれたということ。今年の目標のひとつだった」と達成感に浸った古田は「(これまでに達成した)諸先輩のように、記録を通過点と言いたいですね」とさらに上を目指し、同年は24本塁打を記録した。
文=久保田龍雄(くぼた・たつお)
清原和博の“王越え”
まず村上に記録を塗り替えられるまで最年少記録の保持者だった清原は、西武入団7年目、1992年6月26日のオリックス戦の1回二死二塁、伊藤敦規から放った左越え先制2ランが通算200号になった。
同年の清原は開幕から打撃不振に苦しみ、4月23日の時点で打率.152、1本塁打。翌24日のロッテ戦から4番の座を秋山幸二に譲り、3番を打ったが、5月になっても打率1割6分台と調子が上がらず、同19日、21日のオリックス戦ではスタメン落ちの屈辱も味わった。
だが、毎日早出やランニングを続け、必死になって不振からの脱却を目指した末、6月13日の日本ハム戦から4番復帰をはたすと、7試合で4本塁打と復調し、あっという間に通算200号にリーチをかけた。
そして、「今日決めるつもりで試合に臨んだから気合十分でした」という6月26日のオリックス戦、清原は初回の第1打席で伊藤の内角シュートをとらえ、史上62人目の通算200号を達成するとともに、王貞治(巨人)の25歳3カ月を5カ月更新する史上最年少記録を樹立した。
「狙いと違ったけど、体がうまく反応してくれた。王さんの記録を塗り替えられたことがうれしい」と感無量の清原だったが、「200号は通過点だと思うけど、まだこれだけなのかという感じですね」と通算868本塁打の王の4分の1にも満たないことを痛感させられた様子だった。
その後、清原は1996年4月10日の日本ハム戦で史上23人目の通算300号を達成したが、歴代2位(現在は3位)の28歳7カ月で、王の最年少記録(27歳3カ月)を更新することはできなかった。
その王は、1965年9月19日の大洋戦で史上12人目の通算200号を達成。中西太(西鉄)、野村克也(南海)の最年少記録・28歳0カ月を2年9カ月も更新するハイペースだった。
同年の王は自身初の三冠王を目指し、“最後の難関”首位打者を江藤慎一(中日)と争っている最中とあって、首位打者獲りに集中するためにも、「早く200号を打ってしまいたい」と考えていた。だが、9月11日の広島戦で通算199号を記録してから、3試合足踏みが続いていた。
この日も8回まで2打数1安打1三振2四球と待望の一発は出ず、「今日もダメかと思っていた」という。
最終回も3者凡退なら打席が回ってこない状況だったが、国松彰が安打で出塁し、3番・長嶋茂雄がセーフティバント失敗の三直に倒れたあと、二死一塁で5度目の打席が回ってきた。そして、最後の最後でギリギリ回ってきたチャンスを見事にものにし、峰国安のカーブを右翼席上段に運ぶシーズン30号のダメ押し2ラン。
5打数4安打3打点の長嶋とともに勝利のヒーローになった王は「(200号は)だいぶ気になってましたからね。これでバリバリ打てるようになります!」とスッキリした表情になった。
王とともに歴代3位タイの25歳3カ月で通算200号を達成したのが、巨人時代の松井秀喜だ。ただし、王の記録は25歳3カ月30日なので、日数まで含めると、25歳3カ月9日の松井が単独で歴代3位になる。
1999年9月21日の阪神戦、3回一死、初回の第1打席で先制の中越え二塁打を放った松井は、3回一死一塁の第2打席で舩木聖士から「打った瞬間入ると思った」という通算200号の右越え2ラン。さらに1点差に詰め寄られた7回にも、山崎一玄から自己新のシーズン39号となる通算201号を放った。
4打数3安打4打点でチームの勝利に貢献した松井は「今日は理想的だったね。200号も39号もうれしいが、今年は40本以上打ちたいと思っていたんだから」と12試合を残しての“大台リーチ”に満足そうだった。
同年は公約どおり、42本塁打を記録し、プロ7年目で初めて40本の大台に乗せている。
松井稼頭央は41歳5カ月で達成
一方、遅いほうの記録では、1975年7月6日の中日戦で外国人初の通算200号を達成した阪神時代のジョージ・アルトマンの42歳3カ月が歴代トップ。続いて楽天時代の松井稼頭央の41歳5カ月(2017年4月22日のソフトバンク戦で達成)が、2番目になる。
松井はメジャーで7年間プレーした結果、達成が大幅に遅れたが、本人はプロ入り当時「一番縁がないと思っていた」本塁打の記録で金字塔を打ち立てたことに特別な感慨を抱き、「200本塁打は非常に大きな数字」と語っている。
歴代3位は古田敦也(ヤクルト)の38歳10カ月。入団以来、NPBに在籍しつづけ、15年目で達成したという意味では、事実上の日本人選手としての最年長記録と言えるかもしれない。
通算200号のメモリアルアーチは、2004年6月29日の横浜戦で9回に土居龍太郎から記録。リーチをかけてから5試合目に飛び出したシーズン12号は、県営宮城球場の左翼場外に消える特大弾となった。「元気に15年間やれたということ。今年の目標のひとつだった」と達成感に浸った古田は「(これまでに達成した)諸先輩のように、記録を通過点と言いたいですね」とさらに上を目指し、同年は24本塁打を記録した。
文=久保田龍雄(くぼた・たつお)