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「文武両道 ー親から見た野球と教育ー」宮台忠さん(後編)

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――最後の夏は3回戦で海老名高校に敗退。ここからすぐに受験勉強に切り替えていましたか。
宮台 負けた翌日、「おはよう!」とあいさつを交わしたときの表情が、晴れ晴れしていたのを覚えています。ピッチャーということもあって、康平なりにものすごい責任を感じていたんだと思います。その日は練習に参加して、後輩相手にバッティングピッチャーをしてきたようですが、「いやぁ、すっきりした。これで野球は終わり、勉強する」と帰ってきました。すげぇやつだなと思いましたね。私なんか、負けたあとの夏休みは遊んでいましたから(笑)。


――「東大」という考えはいつぐらいから出てきたのでしょうか。
宮台 夏休み頃だと思います。OBから「東大を受けてみろ。東大で野球をやってみないか」と言われていたのもありますし、川村先生の「もっとも困難な道に挑戦せよ」という言葉も響いていたようです。ただ、秋になったときには「志望校を変えようかな……」と言っていたこともありました。予備校の先生に聞いても、その頃は伸び悩んでいたようです。康平にとって、このときが一番苦しい時期だったと思います。


――六大学でプレーをしたかったというお父さんの想いは、康平くんにも継がれていたのでそうか。
宮台 少なからずあったと思います。でも、現役で東大に受かるとは考えてもいませんでしたし、そんなに簡単な世界ではないと思っていました。


――実際に受かったと聞いたときはどう感じましたか。
宮台 嬉しかったのと、ホッとしたのと。じつは康平が出願の提出を忘れていて、当日必着の書類を東大まで持っていったんです。それをその日の朝3時に気付いて……。今思い出しただけでも、胃が痛みますね(笑)。

――ちょっと抜けているところもあるんですね?
宮台 そういうやつです。高校3年夏に初めて背番号1をもらったとき、開会式の朝に妻から私に電話がありました。「背番号1のユニホームが家にあるけどいいの?」と。いいわけないですよね、開会式にユニホームを持っていくのを忘れていたんです……。


――ヒヤヒヤしたことがいっぱいあったんですね(笑)。いま、東大での活躍はどのように見ていますか。
宮台 1年秋に初めてリーグ戦に登板したときは、まだ自宅から学校まで通っていました。帰ってくるなり、「父ちゃん、凄い疲れた。こんなに疲れるとは思わなかった。毎日、東海大相模とやっているようなもんだよ……」と言っていましたね。思わず、頷きました。


――わかりやすい感想ですね。
宮台 変わってきたなと思ったのは、2年生になってからですね。一緒にスーパー銭湯に行ったときに、康平の体の厚みを見て、「これは凄いわ」と思いました。高校生のときとは体が全然違う。じつは受験勉強中に、体重が10キロ増えたんですが、その脂肪がうまく筋肉に変わってくれたんだと思います。


――これから先の進路として、報道では「プロ志望」という話も出ています。
宮台 去年の12月の中頃ですかね、ヤフーニュースに「宮台プロ志望」と出ていて、こっちが驚きました。冬休みに自宅に戻ってきたときは、『会社四季報』を持っていましたが。


――就職も考えていたのでしょうか。
宮台 本人の意思を直接聞いたのは3月です。「オープン戦が終わったら話しをしたいから、残っていて」と言われて、そこで「おれ、就活しないから」。プロを本気で考えていると知りました。


――「プロと公務員の二刀流を目指せ」という、お父さんの言葉を記事で目にしたこともあります。
宮台 そんなことは一度も言ったことがないですよ(笑)。プロはそんなに甘い世界ではないですから。6月に帰ってきたときには、ドラフトで指名がなかった場合のことも具体的に聞きました。あとは、親としては康平の意思を尊重するだけです。

(取材・撮影:大利実)


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