遊園地よりも野球ができる広場を好んだ少年時代
内川選手は生まれながらの野球人であり、幼少期からの行動すべてが今日の成功へと繋がっている。それを証言してくれたのは、大分県の情報科学高で野球部副部長を務める父・内川一寛さんだ。「そりゃもう根っからの野球好きでね、VHSのテープが擦り切れるほど高校野球のビデオを繰り返し見ていたし、デパートに連れて行っても野球用品売り場から動かない。小さい子どもが欲しがるおもちゃを与えても喜ばないから、クリスマスには野球ボール1ダースを枕元に置いてあげたりね(笑)」
遊園地よりも野球ができる広場を好む。ボールとバットを手にしたら、1日中遊んでいても飽きない。それが内川選手の少年時代だ。
むしろ生まれる前から内川選手は野球のある環境にいたと言っていい。当時、大分県内の国東(くにさき)高で監督を務めていた一寛さんのもとへ、出産を間近に控えた内川選手の母・和美さんが毎日のように差し入れを持って足を運んでいる。この時、グラウンドで発せられる選手たちの声や金属バットの打球音などが、いわば“胎教”となり、生まれたのちも遊び場は決まって高校グラウンドのレフト奥にあった芝生だった。グラウンドにこだまする音や声をBGMにした生活が、0歳から4歳まで続いたのである。
4歳ごろには1歳年下の弟を引き連れ、野球ごっこで遊ぶ毎日。野球ごっことは、一寛さんが指導していた国東高野球部の練習メニューをそっくり真似るというもので、最後には校歌を歌いあげ「気をつけ! 礼!」と深々と頭を下げるところまでを再現したという。
4歳ごろには1歳年下の弟を引き連れ、野球ごっこで遊ぶ毎日。野球ごっことは、一寛さんが指導していた国東高野球部の練習メニューをそっくり真似るというもので、最後には校歌を歌いあげ「気をつけ! 礼!」と深々と頭を下げるところまでを再現したという。