ニュース 2018.07.24. 14:48

「文武両道 ービジネス界で活躍する元球児ー」上野雄平さん(後編)

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早実2年夏にチームが甲子園出場を果たすも、ケガのため裏方としてサポートをした上野さん。仲間と共に向かった最後の夏は「最強軍団」と言われた日大三と決勝を戦いました。1-2で敗戦するも、大学で野球を続けることを決意させるきっかけに。大学では初めてメンバー入りをした4年秋にリーグ優勝をつかみます。心が折れても野球を続けられたのは、そこに生きるための大切なものが詰まっていたからだと言います。社会人2年目の今、改めて野球から学んだこと、教えられたこととは?

早稲田大4年秋に初ベンチ入り。「僕の役割りは敗戦処理。それでも楽しかった。野球人生の終わり方も、僕らしいなって思います!」


――早実2年の秋に右ヒジを手術。リハビリを経て、復帰の計画はどのように考えていたのですか?
上野 春には投げられると言われていたので、試合に向けて冬場はリハビリに取り組んでいました。2月の紅白戦で投げ始めて、3月の公式戦へ準備していたのですが、東日本大震災(2011年)で都大会の予選が中止になってしまい、登板機会はなくなりました。都大会本戦は行われたのですが、僕らは秋に敗退したため予選からのグループだったので…。夏1本にかけるしかないと思いました。


――夏は決勝まで勝ち上がりました。
上野 ケガもよくなり、完投は無理でも3イニング50球くらいなら投げられたので、中継ぎとして背番号10でメンバー入りできました。チームはほぼ2ケタ得点で勝ち進んだのですが、決勝で日大三で1-2で負けました。金子君のタイムリーと、菅沼君のホームランですね。内田―吉永の投げ合いで、安打数も5本ずつ。僕らも強かった。その後、日大三が甲子園で全国制覇しました。


――上野さんの高校野球は納得できるものでしたか?
上野 群馬から出てきて、なんていうか、もうちょっとカッコイイ自分をイメージしていたんですけど、そうはならなかったです。活躍できず、ケガもあり、一時は地元に対して後ろめたいというか「群馬にいればよかったのに」って思われるのがイヤでした。でも後悔はしていません。下街道を歩めたので!

ケガに泣かされた早実時代でしたが、2年夏に西東京大会で登板し優勝。裏方として甲子園メンバーを支えました

――下街道、という受け止めですね
上野 人生どこかでかならず苦境や、挫折を味わう。僕は中学時代が順調だったぶん、高校での挫折がいい経験になりました。あと…これは大変おこがましいのですが、いまプロでもがいている斎藤佑樹さんを見ていると、いろいろなことを考えさせられます。斎藤さんは高校、大学が華やかで、僕は高校でつまずいちゃった。つまずくことで気づけることってあると思うんです。


――早稲田大学では、4年秋にリーグ優勝を果たしましたね。
上野 初めてメンバーに入ったのが4年秋だったんですよ。肩をケガして、一時は学生コーチの打診も受けたんですが、選手にこだわりたかった。そして最後にベンチ入り。続けていればいいことあるなぁと思いました。4年夏に和泉監督に声をかけていただいて、母校の練習に手伝いに行ったことも楽しかったです。当時、清宮幸太郎君(日本ハム)が1年生。打撃投手をしながら「高校生っていいな〜。素直だな」って初心を思い出しました。


――「WASEDA」での7年間はどうでしたか?
上野 大学4年で引退したとき、もう野球はいいやと思ったんです。と同時に「あ、これってもしかして…。オレって早稲田で野球がしたかったんだな」って気づいたんです。当然野球は好きですし、プレーヤーとして続けることも考えましたけど、大学卒業してプレーヤーとして続けるためのモチベーションがありませんでした。「あ、早稲田で野球がしたかったからここまでがんばれ頑張れたんだな」って感じですかね。

――「WASEDA」の魅力とは?
上野 正直、なにに惹かれたのか自分自身でもわかりません。中学生の時に抱いた憧れもあったしブランドもあったと思います。なに何かわからないその魅力が早稲田の魅力かと…。
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