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【今、野球と子供は。】高校野球の発展

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戦前、すでに全国的な人気スポーツとなっていた中等学校野球。しかし、昭和に入り、戦争の機運が高まるとともに野球は国家統制の対象となり、1941年春の第18回選抜中等学校野球大会を最後に中止された。

 

GHQの占領政策で、野球振興


 

終戦後、日本にはアメリカ軍を中心とする進駐軍(GHQ)がやってきて、日本を統治した。

他のスポーツが長く活動を制限され、武道などは競技そのものが禁止される中で、野球は日本が敗戦した1945年の11月には神宮球場で職業野球の大会が開かれるなど、急速に復活した。

1946年にはプロ野球のペナントレースと、夏の中等学校野球大会が再開された。翌年には甲子園も使用できるようになった。

GHQは、日本とアメリカ両国で人気があった野球を奨励することで、戦争で傷ついた日本社会の融和を図ろうとしたのだ。

1948年には学制が変わり、中等学校は、高等学校になった。商業学校、工業学校、農業学校などの実業学校も高校になった。ただし師範学校は「教育大学」になったため、高校野球には参加できなくなった。

これまでは中等学校の1年から5年まで、最長で5年間甲子園に出場できたが、新学制になってからは高校1年生から3年生までの3年間となった。

 

戦前よりもはるかに発展した高校野球


戦後、高校野球は戦前の中等学校野球の時代よりもはるかに発展した。

その原因は、第一に「進学率の上昇」だ。戦前の中等学校(実業学校、師範学校含む)への進学率は18%前後だったが、新制高校への進学率は、1950年に42.5%(男女合わせて)。1960年に57.7%、1970年に82.1%、1980年には94.2%と急速に伸長した。

「高校に行くのが当たり前」になるとともに、高等学校の数も急増。これにともなって高校の野球部も増加した。

1950年の夏の甲子園の地方大会の参加校数は1536校、これが1960年には1903校、1970年には2547校、1980年には3270校、1980年には4027校になった。

中等学校は「地域のエリートが学ぶ学校」だったが、高等学校は、半ば義務教育化し、誰でも行く学校になった。戦後、進学率の上昇とともに野球は「エリートのスポーツ」から「大衆のスポーツ」へと変貌した。

第二に「野球ブーム」の到来がある。前述のとおり、GHQは「野球を通した統治政策」を推進。MLBチームが来日するなど、アメリカの野球文化が押し寄せた。この影響を受けてプロ野球が人気となった。戦後誕生した少年漫画雑誌の表紙は、ほとんどが野球選手だった。子供たちは、空き地で「野球ごっこ」をするようになった。戦前も学童野球はあったが、それらは大学野球経験者など大人が指導するものだった。しかし戦後の「野球ごっこ」は、子供たちだけで集まってする遊びだった。ルールも子供たちで決めた。子供たちは「赤バットの川上」「青バットの大下」など、あこがれの選手をまねてプレーした。

1950年代半ばまで一番人気があったのは、大学野球だったが、1958年に立教大学から長嶋茂雄が巨人に入団し、大活躍すると、プロ野球人気が一気に高まった。ちょうど、テレビが普及する時期だったこともあり、テレビでの巨人戦は大人気番組となった。

1968年に始まったアニメ「巨人の星」の視聴率は30%前後に達し、子どもたちは「野球遊び」に夢中になった。こうした子供たちの多くが、高校野球をするようになった。

第三に「経済発展」がある。高度経済成長時代に入り、日本国民の所得が急上昇し、戦前は手が出なかった野球用品も一般庶民の経済力で購入できるようになった。美津濃は1913年から野球グラブ、ボールを製造していたが、戦後、良質で安価な野球用品を大量に販売。このことも、野球の普及に貢献した。

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