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【今、野球と子供は。】戦後高校野球の盛衰を、10年刻みで振り返る

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東邦高校の優勝で幕を閉じたセンバツ高校野球大会。平成最初の大会と最後の大会を同じ高校が制したことが大きな話題となった。未来の高校球児である野球少年たちにとっても憧れの舞台である甲子園。これまでどんな高校が優勝校として名を刻み、どんな変遷をたどってきたのか? 改めて振り返ってみたい。




高度経済成長期になると、高校野球はさらに発展した。高校の進学率は1970年には82.1%、1980年には94.2%に達し、実質的に「高校全入時代」となった。
1970年代に高校生人口は250万人を超えた。男子高校生は1学年41万人ほどだったが、高校の硬式野球部は、その1割に達した。

この稿では、戦後の春夏の甲子園の優勝校、準優勝校の顔ぶれを紹介し、高校野球がどのように変貌していったかを追いかける。1950年代から10年刻みで見ていこう。

 

1950年代 戦前の名門校が引き続き優勢




地方の公立の強豪校に交じって、戦前から何度も甲子園に出場していた「名門私学」の名前も散見されるが、圧倒的に公立高校のほうが多い。1957年春の優勝校、早稲田実業の優勝投手は2年生投手の王貞治(のち巨人)。アイドルのような人気となった。
1958年夏の準優勝、徳島商は板東英二(のち中日、タレント)が、準々決勝で延長18回、引き分け再試合を含め27イニングを完投する鉄腕ぶりを見せた。
この時期は、記念大会の1958年を除いて出場校は23校であり、半分以上の県では甲子園に代表校を送ることができなかった。

 

1960年代 大阪府「私学7強」の台頭




1960年代に入ると私学の台頭が目立つようになる。特に大阪府では明星、浪商、大鉄、興国、北陽、近大付属、PL学園が「私学7強」とよばれ、有力選手を擁して大阪府大会でしのぎを削った。新興の私学にとっては野球を通じて知名度を上げることが重要だった。その勝者が全国大会でも大きな実績を上げた。大阪府の高校野球の実力は、今も全国屈指とされるが、その背景「私学7強」が高いレベルで競り合ってきたことが大きいとされる。
そんな中でも1965年は福岡県の県立三池工業高校が初出場で初優勝を飾る。この学校を率いたのが原貢。のちに東海大相模、東海大で采配を振るう。子息が現巨人監督の原辰徳だ。
1969年の準優勝、青森県立三沢高校のエースは太田幸司(のち近鉄など)。甘いマスクで大人気となり甲子園アイドルの元祖といわれる。
プロ野球は1965年からドラフト制度を導入したが、甲子園で活躍した球児が「ドラフトの目玉」として注目されるようになった。

 

1970年代 私学と公立のせめぎあいの時代




大阪府だけでなく、他地域でも私学の台頭が目立つようになる。
1973年は、作新学院の剛速球投手江川卓(のち巨人)が、注目の的となる。春は準決勝で広島商に敗退、夏は2回戦で銚子商に延長戦の末敗れたが、日本中がテレビにかじりついた。
70年代後半は、私学の強大化が進む中で、和歌山の箕島(尾藤公監督)、徳島の池田(蔦文也)など名将が率いる公立校が、練習や戦術に工夫を重ねて大活躍した時期でもある。こうした私学、公立のせめぎあいが、甲子園人気をさらに高めていった。
夏の甲子園は1978年から49校が出場するようになる。1都道府県1校制度がこの年から始まった。

 

1980年代 PL学園の黄金時代




昭和末期のこの時代は、大阪府の「私学7強」では最も新興のPL学園が全盛期を迎えた。
野球部専用の寮、グラウンドを有し、24時間野球漬けといわれる環境に、大阪府のみならず全国から有望な球児が集まった。
その代表格が、清原和博、桑田真澄の「KKコンビ」。2人は5期連続で甲子園に出場し、1983年夏(優勝)、1984年春(準優勝)、夏(準優勝)、1985年春(4強)、夏(優勝)と空前の成績を残している。
そしてPL学園は、1987年にはKKコンビが達成できなかった春夏連覇を達成。この年の主力は立浪和義(のち中日)、野村弘樹(のち横浜など)だった。
PL学園の成功によって、全国の私学は野球部寮を設け、全国から有望選手をスカウトするようになった。
1988年から10年ごとの記念大会は55校出場となる。

 

1990年代 投手の健康問題明るみに。松坂世代の登場




平成時代に入ると、PL学園同様、恵まれた環境で選手を強化した私学がさらに台頭した。
全国各地に「私学強豪校」が生まれ、地方大会を勝ち抜くようになる。
1991年の夏の甲子園で、沖縄の沖縄水産はエース大野倫を擁して2年連続で決勝戦に進出したが、大野は決勝戦で右肘を疲労骨折。投手として前途を絶たれた。これを問題視した日本高野連、牧野直隆会長は、甲子園、地方大会前に選手の肩、肘の検診をする制度を導入した。
1998年には、松坂大輔を擁する横浜高校が春夏連覇。松坂と同世代には、杉内俊哉(鹿児島実のちダイエー、ソフトバンク、巨人)、藤川球児(高知商のち阪神)、和田毅(浜田のちダイエー、ソフトバンク)、村田修一(東福岡のち横浜、巨人)などの逸材が多数輩出し「松坂世代」と呼ばれた。

 

2000年代「ハンカチ王子」「特待生問題」




21世紀に入ると、公立高校が甲子園の決勝の舞台に立つことはきわめて稀になる。
私学の中には大学の傘下に入る学校も増え、学校名が変わるケースも散見された。
2006年夏、史上初の夏三連覇を目指す駒大苫小牧と早稲田実が、決勝で対戦。駒大苫小牧、田中将大(のち楽天、ヤンキース)と早稲田実、斎藤佑樹(のち日本ハム)の投げ合いで決着つかず、史上2回目の決勝での引き分け再試合となり、斎藤佑樹が一人で投げぬいて優勝。斎藤は「ハンカチ王子」と名付けられ、日本中を沸かせる。
2007年9月、一部私学の「特待生、奨学金制度」が問題となる。高野連は有識者会議を設置。入学条件などの一般公開、入学金と授業料に限定した免除、各学年5人に限ることを条件に、特待生を認める答申を出した。

 

2010年代 格差の広がりと、投手の健康問題




大阪桐蔭が春夏合わせて優勝6回と、圧倒的な強さを発揮する。大阪桐蔭は「私学7強」同様、全国から選手を集めているが、昭和の高校とは違い、選手の主体性を重んじ、先進的なトレーニング法も取り入れている。また、複数の投手を起用するようになった。こうした傾向は、有力私学を中心に全国に広がっている。
私学有力校の中には100人以上の部員を抱えているチームがある一方で、部員数が9人を割る高校も増えた。高校間の格差が拡大したのだ。このため、日本高野連は2012年から連合チームによる公式戦出場を認めるようになった。連合チームは2012年には11チームだったが、2018年には81チームに増えている。

これまで全く問題視されなかった「投手の球数問題」だが、2013年の春の甲子園で準優勝した済美の安樂智大(のち東北楽天)が、一人で決勝まで投げぬいたことが、米のESPNやYahoo!スポーツなどで大きく取り上げられ、日本のメディアも「高校球児の健康問題」に着目するようになる。
2018年夏の甲子園では金足農の吉田輝星(のち日本ハム)が地方大会から甲子園の決勝まで一人で投げぬき、大きな話題となったが、1517球という球数が問題視される。この年12月、新潟県高野連は翌年春の県大会から「球数制限」を導入すると発表したが、日本高野連は時期尚早とし、2019年4月から有識者会議で投手の健康問題を協議することとなった。

戦後の高校野球を俯瞰すると、時代の波とともに高校野球も大きく変化していることがわかる。世の中の価値観が変化する中で、高校野球も変革の時を迎えている。(広尾晃)
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