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【球数制限を考える】高野連第四代会長牧野直隆が16年前に鳴らした警鐘

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高校野球の「投手の酷使」が、最初に大きな問題になったのは2013年春の甲子園で、愛媛済美高校の安樂智大(現楽天)が決勝まで772球を投げ、これを米ESPNなどが大きく報じたのが始まりだ。
しかし、それにさかのぼること22年前、高校野球では投手の健康被害が大きな問題になった。1991年夏の甲子園(第73回全国高等学校野球選手権大会)の沖縄代表、沖縄水産高校は2年連続の決勝戦に進み、沖縄勢初の優勝に挑んだが、創部4年目の大阪代表、大阪桐蔭高校に8対13で敗退した。
大会後、予選から一人で投げぬいてきた沖縄水産のエース大野倫の右ひじが疲労骨折していたことがわかった。

大野倫の悲劇


大野倫は2年の夏まで外野手だったが、2年の秋から投手に転向。翌年4月に熊本に遠征、鎮西高校とのダブルヘッダーを一人で投げ切り3失点に抑える。球速は自己最速の145㎞/hをマークした。大野は夏へ向けて自信を強めた。しかしゴールデンウィーク中の練習で、ボールを投げたとたんに右ひじから「ブチッ」という音が聞こえた。
大野は連日200球、多い日には300球を投げていた。少しでも手を抜けば栽監督の平手打ちが飛んできたから常に全力投球だった。その挙句の負傷だった。大野は「この痛みはどうにもならない、それまでの痛みとは種類が違う」と思っていたが、右ひじの異変をだれにも言わなかった。病院にも行かなかった。
大野はそのまま沖縄県大会も一人で投げぬいた。有力な高校には打ち込まれたが、沖縄水産の打線は強かった。
しかし準決勝は、強豪校の那覇商との対戦。大野は意を決して栽監督に「先生、ひじが痛いんです」と告白。うすうすそれを察知していた栽は、大野に痛み止めの注射を打って投げさせることにした。注射の効き目は抜群だった。ひじの痛みは完全に引いて、ライバル那覇商を5対1で下す。
決勝戦の前にも注射を打って、豊見城南を6対2で下し、沖縄水産は2年連続の夏の甲子園出場を果たした。
甲子園でも、大野は打たれながらも決勝まで進んだが、大阪桐蔭高校に敗退した。

沖縄に帰ってから、チームメイトは閉会式のビデオを見て、グラウンドを行進する大野倫の右ひじが不自然な方向にねじ曲がっていることに気が付いた。このときにチームメイトは、大野が右ひじの故障に耐えて投げぬいたことを知ったのだ。
大野は医師の検査を受けた。診断は「右肘の剥離骨折」。亀裂も入っており、軟骨も欠けていた。ビー玉くらいの骨片も浮いていた。医師からは「この肘の状態ではピッチャーは無理だろうね」と言われた。
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