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ロマンか酷使か? 日本野球の「エースシステム」誕生の歴史(後編)

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「球数制限」問題は、昨今始まったものではなく、日本に野球が伝わった直後から起こっていた。つまり「日本の野球文化」と深い関わりがある。ここでは日本の野球史を紐解き、「球数制限」議論のルーツを解き明かす。




昭和中期まで続いたプロ野球の「エースシステム」


プロ野球でも昭和中期までは、大エースが大部分の試合で先発する「エースシステム」が一般的だった。

1961(昭和36)年には西鉄ライオンズの稲尾和久が史上最多タイの42勝(14敗)という空前の記録を上げる。この年の投球回数は404回に上った。これは現在のプロ野球のエース級の投手の投球回の2倍にあたる。投球数も5506球に上った。

通算400勝の金田正一(国鉄、巨人)を筆頭に昭和時代には300勝投手が5人、200勝以上が22人生まれている。

昭和時代の大投手は、シーズン200イニングが精いっぱいの現代の投手を「根性が足りない」「投げ込みが足りない」と批判するが、膨大なイニングを投げ抜いた大投手がいた一方で、多くの投手が過酷な投球に耐え切れず、短い年数で引退に追い込まれていたのも事実だ。

2リーグ分立後の1950年以降の最多勝投手で見ても、1951(昭和26)年24勝の江藤正(南海)は、通算50勝で6年で引退。1954(昭和29)年26勝、55(昭和30)年24勝の宅和本司は通算56勝、8年で引退。1961(昭和36)年35勝、62(昭和37)年30勝の権藤博(大洋)は通算82勝、投手としては4年の実働。

それ以下の実績で消えていった投手も含め、酷使に耐え切れなかった投手は「使い捨て」となって顧みられることはなかった。

高校野球は高度成長期以降も「エースシステム」が続いた。1969(昭和44)年夏の甲子園の決勝戦では、三沢高校の太田幸司と、松山商業の井上明が延長18回を投げ合い、引き分け再試合を演じ、全国を沸かせた。

以後も甲子園の過酷なマウンドで投げる投手を、メディアはヒロイックな論調で報道してきたのだ。

■野球漫画が助長した「エースシステム」


戦後、日本では「野球漫画」が爆発的な人気となり、野球ブームに拍車をかけたが、漫画でも「エースシステム」が主流だった。

「巨人の星」の星飛雄馬、「侍ジャイアンツ」の番場蛮、「男どアホウ甲子園」の藤村甲子園などからはじまって、平成時代の「Major」の茂野吾郎まで、日本の野球漫画のヒーローの多くは孤高のエース(ほとんどが左腕)であり、肩ひじの故障の危険にさらされながら過酷なマウンドを投げぬき、最後は燃え尽きてグラウンドを去るのだ。

こうしたお決まりのストーリーが、日本の野球ファンにある種の固定観念を植え付けた可能性はあるだろう。多くの野球ファンは、甲子園で毎年繰り広げられる投手の奮闘に、野球漫画のヒーローを重ね合わせていたのではないか。

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