兄と同じ野球チーム「臥牛」に入団し、左ピッチャー兼外野手として活躍した洋介少年。県内でも強豪に属する少年野球チームだったが、強い肩と、足の速さが評価されて、小3でレギュラー入りを果たす。異例の速さだった。
「コーチは怖くて、練習は厳しかったけど、チームは県内では負けなし!全国大会には行けなかったけど、そこそこ強かったんですよ。ピッチャーをやっていた時、ストライクが入らなくて怒られたこともあったなぁ。試合中にバッテリーで交代させられて、左利きでキャッチャーをやったこともありました。懐かしいですね」
マウンドで右足を高く上げ、美しいフォームで打者に投げ込むのが洋介少年のスタイルだった。父・功さんは「洋介がレギュラーになってからは、野球を教えたことは一切ない」とふり返る。兄を追いかけ、そして時にテレビで見たプロ野球選手をモノマネし、自分の力で野球の発想をどんどん広げて行ったのだ。
姉・京子さんによると「家族でプロ野球のキャンプをよく見に行ったことも、刺激を受けた要因の一つかもしれません」。車で4時間ほどかけて、宮崎県・日向市へ近鉄キャンプを見に行くのが家族の好例行事の一つでもあった。大分・柳ヶ浦出身の山下和彦捕手が知り合いだったことも大きく影響している。
「猛牛軍団」の打撃練習を食い入るように見続けていた洋介少年。のちに、近鉄の血を継ぐ東北楽天ゴールデンイーグルスに入団することになるとは…、この時思ってもいなかっただろう。同じ外野手の村上隆行選手のフルスイングに目を丸くし、家に帰って真似をした。そうやって、恵まれた環境の中で野球を磨いていくうちに「洋介は将来、有望だぞ」と、周りの野球関係者の間で評判になった。
そして、ある大きな転機が訪れる。小学6年生の頃だった。(つづく)
プロフィール
ひらいし・ようすけ/1980年4月23日。大分県出身。175cm、75kg。左投左打。PL学園では主将、外野手として高3春、夏甲子園出場。同志社大―トヨタ自動車。04年ドラフト7位で楽天入団。11年に現役引退後、育成コーチ、2軍外野コーチ(12年)、1軍打撃、走塁コーチ(14年)、2軍監督(15年)。A型。家族は妻、1男、2女。
「コーチは怖くて、練習は厳しかったけど、チームは県内では負けなし!全国大会には行けなかったけど、そこそこ強かったんですよ。ピッチャーをやっていた時、ストライクが入らなくて怒られたこともあったなぁ。試合中にバッテリーで交代させられて、左利きでキャッチャーをやったこともありました。懐かしいですね」
マウンドで右足を高く上げ、美しいフォームで打者に投げ込むのが洋介少年のスタイルだった。父・功さんは「洋介がレギュラーになってからは、野球を教えたことは一切ない」とふり返る。兄を追いかけ、そして時にテレビで見たプロ野球選手をモノマネし、自分の力で野球の発想をどんどん広げて行ったのだ。
姉・京子さんによると「家族でプロ野球のキャンプをよく見に行ったことも、刺激を受けた要因の一つかもしれません」。車で4時間ほどかけて、宮崎県・日向市へ近鉄キャンプを見に行くのが家族の好例行事の一つでもあった。大分・柳ヶ浦出身の山下和彦捕手が知り合いだったことも大きく影響している。
「猛牛軍団」の打撃練習を食い入るように見続けていた洋介少年。のちに、近鉄の血を継ぐ東北楽天ゴールデンイーグルスに入団することになるとは…、この時思ってもいなかっただろう。同じ外野手の村上隆行選手のフルスイングに目を丸くし、家に帰って真似をした。そうやって、恵まれた環境の中で野球を磨いていくうちに「洋介は将来、有望だぞ」と、周りの野球関係者の間で評判になった。
そして、ある大きな転機が訪れる。小学6年生の頃だった。(つづく)
(撮影/松橋隆樹 取材・文/樫本ゆき *幼少期の写真は提供写真)
プロフィール
ひらいし・ようすけ/1980年4月23日。大分県出身。175cm、75kg。左投左打。PL学園では主将、外野手として高3春、夏甲子園出場。同志社大―トヨタ自動車。04年ドラフト7位で楽天入団。11年に現役引退後、育成コーチ、2軍外野コーチ(12年)、1軍打撃、走塁コーチ(14年)、2軍監督(15年)。A型。家族は妻、1男、2女。