「洋介は将来有望だぞ!」
大分の強豪チーム「臥牛(がぎゅう)」に幼稚園児の頃から練習参加していた洋介。小6になると、地元で評判の選手になっていた。
ある日、父・功さんの知り合いの野球関係者から、思いがけない話が少年に持ちかけられた。
「どうだ、洋介。日本一強いチームで野球をやってみないか? 田舎にいたんじゃもったいないぞ。大阪にすごいチームがあるんだ」
大阪の名門「八尾フレンド(現・大阪八尾ボーイズ)」への誘いだった。
元巨人、メジャーリーガーの桑田真澄投手を輩出し、全国大会での実績も数多くある強豪チーム。洋介少年は言われるがまま、セレクションを2度受ける。そして、みごと、合格。何度も家族会議を行い、自ら入団を決意するのだが、この時の本心を苦笑いで振り返る。
「日本一のチームでやるか? と聞かれて『やってやろうじゃん!』と。気持ちに火が付いたんですよね。でも自分で言ったあと、本音は不安でいっぱいでした。『本当に大丈夫か?』『やめたほうがいいぞ』とオヤジから言われて、どうしようかな…と。でも行くしかない!引っ込みがつかなくなってしまったことは、今だから言える話ですが…(笑)」
母方の祖父母が大阪に移り住み、そこで洋介の面倒をみることになった。祖母の英子さんは体が不自由で車いす生活。「でも、洋介のためなら」と、力になることを決意してくれた。
「いろんな人が僕のために、動いてくれている・・・・」
「もう引き戻るわけにはいかない」
12歳なりに、覚悟を感じた洋介。
3月、大分を旅立つ日は胸がいっぱいになった。
別府港発、大阪行きのフェリー「サンフラワー号」乗り場。
たくさんの紙テープが風に揺れ、友達が泣きながら手を振ってくれた。見えている大分の景色が、どんどん小さくなっていった。
「泣いた。号泣でした。友達と、もう一緒に野球をしたり、遊んだりできないのか…と。急に寂しくなった。あとね、船の上から足の不自由なおばあちゃん(ぬいさん)が港の花壇のところに座ってね、顔を手で覆いながら泣いていたのが見えてね・・・。こたえたなぁ。あの光景は忘れられません」。
もう帰ってこれないかもしれない。一緒に乗っていた両親も泣いていた。
「『蛍の光』が流れてね、寂しさが倍増!(笑)別れの時は、船はアカンね。ずーっと見えているからよけい悲しなったわ~」と、関西弁で笑った。
大分の強豪チーム「臥牛(がぎゅう)」に幼稚園児の頃から練習参加していた洋介。小6になると、地元で評判の選手になっていた。
ある日、父・功さんの知り合いの野球関係者から、思いがけない話が少年に持ちかけられた。
「どうだ、洋介。日本一強いチームで野球をやってみないか? 田舎にいたんじゃもったいないぞ。大阪にすごいチームがあるんだ」
大阪の名門「八尾フレンド(現・大阪八尾ボーイズ)」への誘いだった。
元巨人、メジャーリーガーの桑田真澄投手を輩出し、全国大会での実績も数多くある強豪チーム。洋介少年は言われるがまま、セレクションを2度受ける。そして、みごと、合格。何度も家族会議を行い、自ら入団を決意するのだが、この時の本心を苦笑いで振り返る。
「日本一のチームでやるか? と聞かれて『やってやろうじゃん!』と。気持ちに火が付いたんですよね。でも自分で言ったあと、本音は不安でいっぱいでした。『本当に大丈夫か?』『やめたほうがいいぞ』とオヤジから言われて、どうしようかな…と。でも行くしかない!引っ込みがつかなくなってしまったことは、今だから言える話ですが…(笑)」
母方の祖父母が大阪に移り住み、そこで洋介の面倒をみることになった。祖母の英子さんは体が不自由で車いす生活。「でも、洋介のためなら」と、力になることを決意してくれた。
「いろんな人が僕のために、動いてくれている・・・・」
「もう引き戻るわけにはいかない」
12歳なりに、覚悟を感じた洋介。
3月、大分を旅立つ日は胸がいっぱいになった。
別府港発、大阪行きのフェリー「サンフラワー号」乗り場。
たくさんの紙テープが風に揺れ、友達が泣きながら手を振ってくれた。見えている大分の景色が、どんどん小さくなっていった。
「泣いた。号泣でした。友達と、もう一緒に野球をしたり、遊んだりできないのか…と。急に寂しくなった。あとね、船の上から足の不自由なおばあちゃん(ぬいさん)が港の花壇のところに座ってね、顔を手で覆いながら泣いていたのが見えてね・・・。こたえたなぁ。あの光景は忘れられません」。
もう帰ってこれないかもしれない。一緒に乗っていた両親も泣いていた。
「『蛍の光』が流れてね、寂しさが倍増!(笑)別れの時は、船はアカンね。ずーっと見えているからよけい悲しなったわ~」と、関西弁で笑った。