いまでこそ、流ちょう(?)な関西弁を話す洋介だが、大阪に引っ越したばかりの頃は、言葉の違いに苦労した。
「大分弁を話すのが恥ずかしくて、中学校では3カ月間、友達と1回も話せなかったんです。ホームシックにもなったし、祖父母と一緒に暮らしているとはいえ、自分を出せず、引きこもってしまっていました」
姉・京子さんは、中学入学後の弟が心配で5月の運動会を見に行った。そこで衝撃を受ける。「どこにいても1番うるさかった洋介が、全然元気がなかった。体も痩せてしまっていて、そうとう追い込まれているんだろうなと感じました」と振り返る。
練習着の洗濯ひとつ考えても、野球少年のサポートは大変だ。体の不自由な祖父母が大変な思いをして弁当作りなどをしているのを見た京子さんは、「2年後、私が高校を卒業したら洋介と大阪で暮らそう」と決意を立てた。
父・功さんは姉弟のこの時の決意を語る。「(洋介の)細い体がもっと細くなって、裸になるとあばら骨が浮き出るほどだった。『これはもう限界かな。中学が終わったら大分に戻そうかな』と考えていたが、洋介の強い意志と、京子の決意を尊重し、見守り続けることにしました」。
二年後。京子さんは大阪の短大へ進学。ここでも、家族の力が大きな力となった。
八尾フレンドの練習は噂通りの厳しさだった。「質、量ともに、高校野球の練習をしているようだった」とふり返る。
「しんどかったけど、弱音は吐けない。レベルの高い仲間と野球をすることがとにかく楽しかった。その楽しさのお陰ですべてを乗り越えられました。親元を離れて、親のありがたさに初めて気づけたし、『甲子園に行ったろ!』『プロ野球選手になるぞ!』という思いがより強くなりました」
この時のチームメートには、のちにPL学園で活躍する上重聡(投手・立教大―日本テレビ)、稲田学(投手・大阪ガス)がいた。洋介は1年秋からレギュラーに定着。俊足の1番外野手で活躍し、中3ではキャプテンも務めた。全国大会優勝、ボーイズのJAPAN関西選抜でも副主将を務め、2番打者で活躍し、世界大会で優勝を修める。厳しく、レベルの高い環境が、困難に負けない強い心を育てて行った。
「大分弁を話すのが恥ずかしくて、中学校では3カ月間、友達と1回も話せなかったんです。ホームシックにもなったし、祖父母と一緒に暮らしているとはいえ、自分を出せず、引きこもってしまっていました」
姉・京子さんは、中学入学後の弟が心配で5月の運動会を見に行った。そこで衝撃を受ける。「どこにいても1番うるさかった洋介が、全然元気がなかった。体も痩せてしまっていて、そうとう追い込まれているんだろうなと感じました」と振り返る。
練習着の洗濯ひとつ考えても、野球少年のサポートは大変だ。体の不自由な祖父母が大変な思いをして弁当作りなどをしているのを見た京子さんは、「2年後、私が高校を卒業したら洋介と大阪で暮らそう」と決意を立てた。
父・功さんは姉弟のこの時の決意を語る。「(洋介の)細い体がもっと細くなって、裸になるとあばら骨が浮き出るほどだった。『これはもう限界かな。中学が終わったら大分に戻そうかな』と考えていたが、洋介の強い意志と、京子の決意を尊重し、見守り続けることにしました」。
二年後。京子さんは大阪の短大へ進学。ここでも、家族の力が大きな力となった。
八尾フレンドの練習は噂通りの厳しさだった。「質、量ともに、高校野球の練習をしているようだった」とふり返る。
「しんどかったけど、弱音は吐けない。レベルの高い仲間と野球をすることがとにかく楽しかった。その楽しさのお陰ですべてを乗り越えられました。親元を離れて、親のありがたさに初めて気づけたし、『甲子園に行ったろ!』『プロ野球選手になるぞ!』という思いがより強くなりました」
この時のチームメートには、のちにPL学園で活躍する上重聡(投手・立教大―日本テレビ)、稲田学(投手・大阪ガス)がいた。洋介は1年秋からレギュラーに定着。俊足の1番外野手で活躍し、中3ではキャプテンも務めた。全国大会優勝、ボーイズのJAPAN関西選抜でも副主将を務め、2番打者で活躍し、世界大会で優勝を修める。厳しく、レベルの高い環境が、困難に負けない強い心を育てて行った。