ニュース 2017.06.29. 11:53

【夢を叶えた男たちの少年時代】平石洋介楽天イーグルス2軍監督(中学・高校篇)

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横浜のエース松坂大輔との貴重な2ショット
選手にも大人気だった横浜のエース松坂大輔との、貴重な2ショット。洋介が開会式で思い切って声をかけた


1998年、第80回全国高等学校野球選手権大会(記念大会)の開会式で、横浜のエース・松坂大輔投手(ソフトバンク)と撮った1枚だ。この笑顔の裏には、言葉では言い尽くせない練習量、苦悩があった。

洋介は八尾フレンドから、PL学園に進み「全国制覇」だけを目指して野球に打ち込んだ。高2秋の新チームから主将を任され、春のセンバツ準決勝は優勝候補・横浜と対戦した。松坂の名前はこの時すでに全国区。PL学園は“怪物”と呼ばれる大エースから2点を先取するが、8回の本塁への悪送球と、9回のスクイズで失点し、敗戦した(2対3)。18年間、春夏6回の全国制覇で高校野球のトップに君臨してきた中村順司監督が、勇退する最後の采配でもあった。この日の敗戦から、夏の甲子園出場を果たすまでの間はまさに「死にもの狂い」で練習した日々となった。

夏の準々決勝では代打で8回から出場し安打
ケガ、手術もあり、順調とは言えない高校野球だったが、夏の準々決勝では代打で8回から出場し安打も放った


「全国優勝する為には、横浜高校は絶対に倒さないといけない存在でした。特に春負けてからは、(松坂)大輔から点を取って、横浜高校に勝って、全国優勝という明確な目標ができました」。

そして夏。名勝負として今も語り継がれている準々決勝・延長17回の死闘(横浜9対7PL学園)へとつながっていく。洋介は幼少時代から磨いてきた洞察力を発揮し、「10番目の選手」、三塁コーチャーとして試合参加したが、8回に代打で出場し4打席立った。松坂から右前安打も放ったが、3時間37分にも及ぶ熱戦は、あと一歩で力尽きた。
「結果、苦しめる事は出来ましたが、勝てなかった相手でした。大輔は僕にとって本当に大きな存在、大きな壁でした」

全国から精鋭が集まったPL学園のチームメイト
全国から精鋭が集まったPL学園。「打倒横浜」の夢は果たせなかったが、日本一のメンバーだったと、洋介は胸を張って言う



野球を通じて上下関係や規律を学んだ高校時代
野球を通じて、上下関係や規律を学んだ高校時代。この時の経験が、いまの選手育成の土台になっている


この写真を見ると思いだす。
偉大だったライバルの存在。そして「打倒横浜」に仲間と燃えた日々。

「今年の春、本人にも伝えましたが、いま苦しんでるけど、大輔にはもう一度輝いて欲しいんです。今の現役の選手は、大輔の凄さを味わった事がない選手が殆どになった。大輔はこんなもんじゃないっていうところを見せて欲しいんです。どんなスタイルで野球をするかは関係ない。存在感が他とは全然違うのだから。その大輔がベストピッチングをして、楽天の選手が攻略する。その日が待ち遠しいんです」。
今でも心残りなのが、プロ時代、松坂からヒットを打てなかったことだ。だからこそ、大きな存在として、洋介の心にあり続けている。そして再び、偉大なライバルを攻略したい――。そう願っている。(続く)
(取材・文/樫本ゆき *中、高校時代の写真は提供写真)





プロフィール
ひらいし・ようすけ/1980年4月23日。大分県出身。175cm、75kg。左投左打。臥牛(少年野球)-八尾フレンド(大阪八尾ボーイズ)-PL学園。中、高校時代は主将、外野手として活躍。高3春夏に甲子園出場。ともに横浜高校と対戦し敗戦を味わう。同志社大-トヨタ自動車を経て04年ドラフト7位で東北楽天ゴールデンイーグルス入団。11年に現役引退後、育成コーチ、2軍外野コーチ(12年)、1軍打撃、走塁コーチ(14年)、2軍監督(15年)。A型。家族は妻、1男、2女。

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