「喜怒哀楽が激しい子供でしたね」
岩嵜投手は幼少時代をこう振り返る。これは以前、母・秀子さんから伺ったこともある話だ。現在の岩嵜投手を知る人ならば、少々意外な印象を受けるかもしれない。
「すごく怒るし、すごく泣く。喜怒哀楽で言うと一番激しかったのは『哀』かな。小学生の頃はクラス替えがあると泣いていたくらいです。人見知りが激しかったんですよ。一度仲良くなってしまえば大丈夫なんですけどね。まぁ、人見知りは今も残っていますけど」
生まれは千葉県船橋市。岩嵜家の次男として産声をあげた翔くんは、まん丸なお顔から愛くるしい笑みをこぼす元気な赤ちゃんだった。おくるみからはみ出してしまうほどにスクスクと成長していく。歩くようになると外で遊ぶのが大好きになり、「お願いだからじっとしていて!」とお母さんに泣きつかれてしまうこともあったとか。嬉しいことがあったときには声をあげて喜び、手がつけられないほど怒ったかと思えば全力で泣いて哀しみ、思い切り楽しむ。子供らしいと言えば、そうなのかもしれない。
そんな翔くんの野球との出会いは小学2年生の頃。2歳上の兄・翼くんとともに、近所の軟式チーム「ホワイロビーストロング」に入団した。
「最初は野球にすごく興味があったというわけではなかったんですけど、スポーツは好きだったので兄と一緒に始めました」
当時はサッカー人気が高く、ましてや千葉県ならその熱はいっそう高い。しかし、ここで野球を選んだことが翔くんの野球人としての原点となった。通常なら学年ごとにチームをつくるのだが、翔くんは飛び級でお兄さんの学年に混ざって試合に出場することもあった。ポジションはピッチャーとショート。
「この頃はバッティングが好きだったので、ショートの方が好きでしたね。クリーンアップを打っていたような気がします」
5年生で「宮本ビーバーズ」に、そして6年生で「海神スパローズ」に所属した。チームが変わり、友達関係が変化したこともあって練習はあまり好きではなかったと話す。
「練習は土日だけでしたけど、試合がない練習日はちょっと憂鬱と言うか……(笑)。試合だとプレーに集中できるから、その方が好きだったんだと思います」
とは言え、野球にのめり込んでいくうちに週2日のチーム練習以外は自主練習に励むようになる。父・司さんが環境を整え、練習に付き合ってくれた。
「お父さんがネットを張ってくれた練習場でよくティーバッティングをしていました。それから、空き地にブルペンまでつくってくれて、そこでピッチングもしていましたね」
お父さんは電気屋を営んでいるため、暗くなっても照明はバッチリ。心おきなく夜間練習で汗を流すことができた。
ご両親はよく試合や練習の応援にかけつけた。
「子供が炎天下の中で頑張っているので、自分たちも同じ立場にいないと、帰ってきたからついついあれこれ口うるさく言ってしまうんです。子供も自分も疲れていると同じ目線で話ができますからね」とはお母さんの考えだ。こうした家族の協力もあり、ますます野球に夢中になっていく。
「テレビ中継は巨人戦しかやっていなかった」とあって、幼少期から巨人ファン。松井秀喜選手が大好きだった。上原浩治投手も好きで、よく真似をしていた。こうして真似ることが上達への近道だと言う。
「今の野球少年たちにも伝えたいのですが、プロ野球選手や身近な選手などをしっかり見て真似てみてはどうでしょうか。僕もチームの先輩やプロ野球選手の上原さんや五十嵐(亮太)さんの真似をしていました。それで人を見る癖もつく。そのおかげで、この選手はこうしているんじゃないかと考える力もけっこう付いたと思います」
見る力、考える力、それはプロになった今でもおおいに役立っている。
この少年野球時代が、やんちゃな中学時代、甲子園を目指した高校時代へとつながっていく。
協力:福岡ソフトバンクホークス オフィシャル球団誌『月刊ホークス』
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