


プロ1年目から埼玉西武のレギュラーに定着し、新人としては史上4人目の全試合フルイニング出場を果たした源田壮亮選手。2リーグ分立後の新人史上2位となる155安打を放ち打数、三塁打数は堂々のリーグトップ。打者として球団の新人記録も次々に塗り替えるなどして、文句なしの2017年パ・リーグ新人王に輝いている。さらに11月には侍ジャパンのトップチームにも初選出され、ルーキーイヤーにして日本屈指の内野手となった。
大分商高時代に甲子園出場はない源田選手だが、愛知学院大で全国大会を経験し、トヨタ自動車時代にはアマチュア最高峰の都市対抗優勝を果たしている。いったい源田選手はどのようにしてトッププレーヤーにまで昇り詰めていったのか。そこで今回は一番近くで源田選手を見守り続けてきたご両親に話をうかがい、源田選手の幼少期の様子や成長の過程を語ってもらうことにした。
キャリアのスタートは小学校3年、明野西少年ソフトボールに入団した時点ですべては始まった。
源田選手が生まれ育った大分市明野地区はソフトボールが盛んな地で、2歳上の兄も同じチームに所属していたため、源田選手はソフトボール部への入部を果たす。中学校まで野球をしていた父・光明さんが振り返る。
「家の近所に2002年のサッカーW杯で試合会場にもなった現在の大分銀行ドームが完成し、ちょうど大分トリニータが強かった頃だったんです。本人はサッカーをやりたがっていたのかもしれません。ただ、どうしても私が野球をやらせたかったので。ソフトボールを始める前からゴムまりのようなボールを与え、少しずつ野球に導いていきました(笑)」
小学校入学前から体を動かすことが大好きで、学校から帰ればバット、ボール、グラブの“3点セット”を持ち出して暗くなるまで遊んでいたという。同じチームでプレーしている兄の同級生が相手をしてくれたことが、下級生の源田選手にとっては上達の近道になったのかもしれない。
小学校に入学してからはますます運動能力が際立ってきたという。地元のスイミングスクールにも通った。同スクールでアトランタとシドニーオリンピックに出場した平泳ぎ元日本記録保持者の林亨選手を育てたコーチが光明さんの同級生だったそうで、しきりに「水泳でトップクラスを目指せ」と勧められたらしい。しかし、光明さんは「水泳はあくまで野球のための基礎体力作りだから、そこまで言うなら辞めさせる」と、きっぱりスクールをやめさせてしまったそうだ。
小、中学校と体は小さい方だった。しかし、持ちタイムによってスタート順が決まる運動会の徒競走では常に最速の最終組。体が小さいために他の子よりも足の回転数を上げて加速し、体の大きな子供たちと互角以上の勝負を演じたという。また、マラソン大会でも学年トップクラス。母の靖子さんによると「結構女の子たちをキャーキャー言わせていた存在」だった。ちなみに中学校の卒業文集に記した「160㎝」は、見栄を張ってサバ読んだものである。それほど身長には恵まれてはいなかった。
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