大分工高時代の内川選手は通算43本塁打のスラッガーとしてだけでなく、大分工監督だった一寛さんとの「親子鷹」としても大きな注目を集めた。打撃センスは折り紙付きで、文句なしのドラフト1位指名となったが、当初一寛さんはプロ入りに対して猛反対していたのだという。
「長い間、病気に苦しんで1年以上も野球ができていなかったわけですからね。私は大学時代に1学年上の江川卓さん(法政大〜巨人)や同学年の石毛宏典(駒沢大〜プリンスホテル〜西武)といった“ドライチ”選手を見てきました。だからプロ入りには反対だったんです」
内川選手は高校1年の秋に左かかとに穴が開く骨嚢腫(こつのうしゅ)という難病に侵された。3度の手術を経て、苦しいリハビリを経験した内川選手の実戦復帰は、2年秋にまでずれ込んでしまう。実質1年間で43本塁打を量産した技量は特筆すべきだが、普通に考えれば1年間のブランクを経験した高校生選手がドラフト1位でプロ入りすることなど、ほぼあり得ないことだ。一寛さんの心配も、親としては当然のことである。
2008年のセ・リーグ首位打者に輝いて以降、第一線で目覚ましい活躍を続ける内川選手。それでも両親は「とにかく無事に、怪我なく試合を終えてほしい」と、祈る思いでテレビを見ているそうだ。母の和美さんはいまだに試合前に必ず自宅の仏壇に線香をあげている。息子へ注ぐ愛情の深さは、かつて国東高校のグラウンドでハイハイをしながら遊んでいた子どもの頃と、なにひとつ変わらない。
「去年の日本シリーズ第6戦で放った9回土壇場の同点ホームランだけですよ。『こいつ、本当にスゲェな』と思ったのは。それ以外は、常に心配しながら見ていますから」
生まれながらの野球選手、内川聖一。いや、プロ選手になることを宿命づけられて生を受けたとしか思えない“野球の申し子”という言い方が適切か。プロ18年目で達成した2000本安打は、家族全員で積み上げた金字塔でもあるのだ。(文:加来慶祐/写真は家族提供)