ニュース 2018.07.09. 13:40

小さな体で甲子園に、当時から芽生えていた「指導者」への志

中学時代からベンチでサインを出していた

私は大阪府東大阪市の出身です。野球との出会いは、小学校時代。自分たちで勝手にチーム作って、相手を見つけて試合しました。そして小学校ではソフトボールもしました。昔の男の子はみんなそんなものだったでしょう。

中学に上がって野球部に入りました。準硬式、トップボールですね。先輩が厳しくて、とにかく下級生は毎朝朝練でしごかれました。だからあまり野球部に入部する生徒は少なかったですね。相当覚悟がいりました。

でも顧問の先生は野球経験はなくて、練習は自分たちだけでやって、先生は試合のときだけ来たんです。厳しかったのは先輩の勝手な方針でした。中3になって私は副キャプテンになりました。キャプテンは投手だったので、野手は私がオーダーを考えるんです。試合になると先生に「ここはバントですよ」とか言いました。その当時から指導者みたいなことをしていたんですね。

私たちの目標は、東大阪市、柏原市、八尾市などの中河内地区大会を勝ち抜いて、日生球場で行われる大阪府大会に出場することでした。古くは土井正博(元近鉄、西武)、高田繁(元巨人)、福本豊(元阪急)、最近でも桑田真澄(元巨人、パイレーツ)と、準硬式野球からもたくさんプロ野球選手が出ています

私たちは、日生球場に2回出ました。でも両方とも1回戦で負けましたから、有力と言うほどではありませんでした。

「大阪府私学七強」の一つ、明星高校に進む

高校は私立の明星高校に進みました。明星高校は、私が中学3年のときの夏の甲子園で、この大会で全国的な人気者になった太田幸司投手(元近鉄)の三沢高校(青森)に、2回戦で1-2で負けました。この活躍を見て、明星に行こうと思ったんです。

当時の大阪府の高校野球は、PL学園、近大付属、興国、北陽、浪商、大鉄、明星のいわゆる「私学七強」が覇権を争っていましたが、その中で野球だけでなく勉強にも力を入れていたのは、明星高校でした。私は勉強もしたいと思っていたので、明星を選びました。

明星高校は1968年に夏の甲子園で優勝しています。そのときの投手だった角田さんが監督でしたが1年生の夏に監督が交代されました。

この監督がとにかく厳しかった。内野ノックは、至近距離からすごい球を打つんです。正面で捕れる球も、ぎりぎりも、果てしなく遠いところも、がんがん打つ。私は高校生ながら、このノックでは、選手はあまり上達しないだろうなと思っていました。

また、明星のグランド(校庭)の校舎側には階段がありましたが、その1段ずつに選手を立たせてキャッチボールをさせました。球がちょっとでもそれたら選手に当たります。緊張感を持てということでしょうが、どうなのかと思っていました。

1972年、3年生の夏の甲子園に出場しました。大阪府大会では、2回戦北陽を15-4コールド、3回戦浪商を4-0、4回箕面自由学園を7-0、そして大阪府大会3連覇がかかっていたPL学園も9-2コールドで退けました。当時PL学園は「打倒明星」をスローガンにしていましたが、明星はまだ夏の予選では負けていませんでした。準決勝は興国1-0、決勝の河南戦は10-0でした。

甲子園はベスト8で、この大会で優勝した津久見高校(大分)に負けました。
私は二塁を守りスイッチヒッター、明星はみんな体が小さくて、平均身長は170cmあるかないかでした。プロ行くような選手はいませんでした。

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