ニュース 2018.07.23. 14:28

「文武両道 ービジネス界で活躍する元球児ー」上野雄平さん(前編)

――地元の期待も力にして、入学後は順風満帆だったのではないですか?
はたから見れば順調だったかもしれませんが、実際はとても苦労しました。早実に入ってすぐベンチ入りして、練習試合で投げたんですよ。入学して5日後くらいでした。静岡から来た内田聖人(元JX-ENEOS)と僕の2人だけで、背番号20番をもらったんです。好スタートと言えるかもしれませんが、高校野球というというものがわかってなかったですし、ピッチャーだからただ入っただけなんだろうなと思いました。


――同期の仲間より先にメンバー入りして、高揚感や、優越感は?
その逆で、僕なりに劣等感を感じていました。入部初日に内田とキャッチボールをしたとき「コイツには勝てないな」と思ったんです。内田は中学硬式の有名投手で、全日本のエースでしたからね。ほかの同級生も見ても「なんかすげーやつがいっぱいいるなー」って思って。入部初日に挫折感ですよ(笑)。


――上野さんも中学時代は県でナンバーワン投手でした。
いや、自分なりに察しましたね。15歳の子どもでしたけど、そこは(笑)。あ〜、こいつには勝てないんじゃないかなって。当時はアパートで下宿生活。ホームシックもあったし、精神的に大変な時期であったことは間違いないですね。

関東大会出場を果たした伊勢崎三中。

――群馬のご両親とは頻繁に会えたのですか?
2週間に1度は来てくれましたね。父が野球好きだったので、ベンチ入ったよってメールすると、よく見に来てくれましたね。父親は優しく見守るタイプ、母親はその逆で叱咤激励するタイプ。真逆の性格をしている両親がいいパランスで応援してくれました。


――早実は、上野さんが2年夏のときに甲子園出場を果たしましたね。
1つ上の鈴木健介さん、土屋遼太さんのバッテリーのときですね。甲子園メンバーには外れたけど、西東京大会では僕もベンチ入りさせてもらいました。同い年では内田、重信慎之介(巨人)や安田権守(カナフレックス)と、18人中1、2年生が8人もいたチームです。


――甲子園メンバーから外れた悔しさは?
ありませんでした。その頃、春ごろから痛み出したヒジが限界で、騙し騙し投げているような感じだったので…。甲子園が終わったあとに手術をしました。痛みの原因は右ひじのネズミと疲労骨折でした。右ヒジにはいまもボルトが入っています。甲子園は裏方としてチームをサポートしました。それはそれで楽しかったし、甲子園の中に入って素晴らしさを肌で体感できたのでうれしかったですね。


夢だった甲子園出場を果たすも、高2の夏に右ヒジ手術を余儀なくされた上野さん。リハビリ生活を経ての、最後の夏はどんな結末だったのでしょうか。後編では7年間の早稲田野球について、社会人としていま思うことをお話していただきます。(取材:樫本ゆき、写真:本人提供写真、樫本ゆき)


上野雄平さんプロフィール

1993年12月25日生まれ。群馬県出身。小3で野球を始め、伊勢崎三中時代はエースとして3度の県優勝、関東大会3回出場。最速138キロの速球を買われ、中3秋、Kボール全国大会に「伊勢崎北選抜」として出場する。早稲田実業に入学後2年春にベンチ入りし甲子園出場。早稲田大学では4年秋にリーグ優勝に貢献する。1年間の就職浪人の間、母校で臨時コーチを務め、清宮幸太郎選手などの練習をサポート。大学卒業後は大手旅行代理店に勤務している。

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